細川斎樹が井上源三郎に宛てた、音信物に対する礼状である。「写」と断りがあるが、見事な筆跡である。
この手の書状は過去にも何度か出品されていたことを記憶している。当初は井上源三郎成る人物は家臣かと思って色々調べたが該当者が存在しない。
幕府の役人かもしれないとも考えていた。
何気に自分のブログでサイト内検索をしてみた処、これがヒットしてヒントを得ることができた。
2015:1:14にご紹介した「■立政公御参勤 道中日記をたどる・13(伏見入り)」に、井上源三郎の名前が見える。
この立政とは後に上記の文書の主・齊樹の養嗣子となった齊護の事である。
上記道中日記によると、立政が伏見の本陣に入った時、関係者10名程が共に立政に御目見をしている。
その折土産を持参しておりその詳細が記載されているとともに、それぞれに金子の拝領が仰せつけられている。
伏見本陣の関係者であろうことが伺える。
ここのところご紹介している「細川小倉藩・日帳」は、寛永期のもので時代は全く違うが、同名の名前が見え、どうやら井上源三郎を代々名乗る京都周辺の有力な商人であろうことが推察される。
・寛永元年十一月廿五日
町人ノ家中貸付米 |一、松屋道仁・糸屋宇右衛門・井上源三郎手前米、御家中へ御借付被成、利米相渡候事、
ノ利米 |
・寛永五年四月十二日
鮒鱒鮓 |一、井上源三郎ゟ鮒鮨桶壱つ・鱒壱つ進上仕ニ付、 御書一つ、
・寛永五年五月六日
鯖 | 一、井上源三郎ゟさば一箱進上候事、
・寛永五年七月八日(上方から音信物下る)
| (鱈ヵ)
|一、井上源三郎ゟ□壱つ下ル、則上申候事、
・寛永七年四月十四日
北ノ丸ニ井上源三 |一、今朝は於北丸、井上源三郎被成御数寄候也、
郎ヲ数寄ニ招ク |
・寛永七年五月廿四日
柄巻革下ル |一、今日、大坂ゟ御舟下申候、御船頭は岐木九兵衛也、御柄巻革ノ由一箱、又、井上源三郎ゟ上り申
京摂津河内洪水 | さばの由ニて、一箱持下申候、右御船頭申候は、京都ニハ、去廿日・廿一日ニ大水出申候、摂津
淀城内は舟行ス | 国・河内ニハ河端ノ土手堤之分も壱間も無御座候由申候、又淀ノ御城ニハも水つき、城内をかち
| にてもありき申儀不相成、舟ニ而ありき申候由申候、
・寛永七年五月廿九日
忠利書状等京大坂 | 生嶋玄蕃殿へ之 御書壱通、
諸方へ | 井上源三郎へ之 御書壱通、
| ソノ外、京・大坂へ御用之状とも不残、入江仁兵衛・瀬崎猪右衛門両人ニ相渡申候事、