津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(522)寛永七年・日帳(十月十日~十二日)

2021-03-20 08:54:21 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年十月)十日~十二日

         |                               
         |   十日  加来二郎兵衛  
         |                                           (町)
江戸へ音信    |一、江戸へ、今朝御鉄炮衆弐人、山川惣右衛門与小林市丞・井関久馬助与宗村九兵衛被遣候二、三
         |       (松野親英)          (自徳院、松井康之室)                                     
         |  右衛門尉・織ア所へ 御書箱弐つ、しとくゐん殿へ、式ア殿ゟ状壱包、江戸御留守居衆へ、我等
         |  共ゟノ状壱つ、右之分相渡、夘刻ニ出船申付候事、
御蔵納ノ米雑穀ノ |一、御蔵入之御米・さこくこしらへ悪敷仕、御蔵入仕候時、冣前如被仰付、納主ニ判形をさせ置候而
検収       |  ハかきり御座候、こめ・ゑこ・なたね・ひへ、上米・上籾なとの類、員数究候物之分ハ、悪敷を
         |  請取候てハ、御用つかへ申候間、いかゝ可仕哉と、御蔵奉行衆被申候、松の御丸衆中へも、其段
         |  段合被仕候へと申候処、彼衆被申候ハ、左様ノ員数究たる物ハ、湯治直させ、御蔵入させ可然由、
         |  被申候、其分ニ被仕候へと申渡候事、
         |                            (春木)
呼野南口屋番病死 |一、呼野南ノ御口屋御番原吉右衛門、十月三日ニ病死仕候由、金大夫被申候事、せかれ十二、三ニ成
         |  申むすこ一人御座候、其外ほそきせかれ三人御座候由也、
         |      〃〃
宇佐茶屋修繕奉行 |一、うさ御茶屋繕御作事之御奉行ニ、山田久丞・菅村藤吉、此両人申付候、則、其段書状ニ申遣候事、
         |    (池田忠雄)
池田忠雄ヨリ音信 |一、備前之宮内様ゟ、御飛脚一人参候由、吉田縫殿被申候事、
届        |         

         |                               
         |   十一日  奥村少兵衛  
         |
忠利本丸ニ数寄ノ |一、今朝は、御本丸ニて御すき御座候、左候而、御膳通候而、御鷹野ニ被成御座候事、

後鷹狩ス     |
         |    (一通)                               
稲葉一通ヨリ音信 |一、稲葉民ア様ゟ御使者被参候、吉田縫殿所ゟ人をそへ、御文箱・御音信物持せ被上候事、
御菓子請取人へ差 |一、九月十六日御納之時、御くハし請取人、かちノ御小性真玉半右衛門・林作左衛門ニ、さしかミを
紙        |  させ可申候、左無之候ヘハ、御くハし代米請取申儀不相成由、椋梨半兵衛被申候事、
         |  (規矩郡)             (同郡)                (中村)
百性御印無キ鷹匠 |一、徳光村之源次郎と申御百性申来候ハ、今朝横川へ御鷹師横山九介・太左衛門と申由ニ而、御鷹つ
ヲ報告      |  かひ被申候、 御印を合可申由、申候へ共、 御印無之由、被申候間、此段御郡奉行衆へ申上候
         |  ヘハ、御奉行衆へ申候へと、被仰候由、申来候、 御意ニ而被参候間、可得其意候、能申来候通、
         |  申渡候事、
         |一、稲葉民ア様ゟノ御返書出申候、則、御使ニ渡申候事、但、御使ニ渡させ申候ハ、守田少兵衛ニ持
         |  せ遣候也、

         |                               
         |   十二日  加来二郎兵衛  
         |                                         (松井興長)
筑前ヨリ走女   |一、筑前ゟ、女三人走来申候、人留之御番尾藤新介召連参候ニ付、御家老衆へつれさせ候処、式ア殿
         |                                 (通柏、之房)
         |  にて、かの女ノ口を御きかせ被成候処、かの女申分ハ、筑前にてハ、井上道伯内大野久太夫と申
         |  仁所ニ奉公仕居候へ共、かの主人きつき仁にて御座候ニ付、かんにん不罷成、走来申候、少も別
         |  之子細務御座候由申候、幸、奉公を式ア所ニ可仕由申候間、則、三人共ニ、式ア殿ニ被 召抱候
         |  由、被仰聞候、かの女一人ハ歳五十、其むすめ十、又、一人ハ十九ニ罷成申由、申候事、
         |     ・頼母殿・監物殿             (友好)
松井友好ノ人足中 |一、式ア殿〇ゟ、御使者を以、被仰聞候ハ、松井宇右衛門尉、今度御加増之知行ノ内ノ百性ノ名子、
間口論ス     |  宇右衛門所ニ人足ニ参居候処、夜前、宇右衛門中間ともとからかい仕、かの人足も中間ともたゝ
         |                                         候へと
         |  き申候処、かの人足申候ハ、かやうニたゝかれ候て、此分ニ而ハかんにん不仕候間、覚■■申ニ
         |                                          (植木、鞍手郡)
         |  付、又、いかやう中間塘可仕哉と、気遣ニ存、たちのき申候、かの人足ノおや、筑前之内うへ木
惣別筑前へノ走者 |  と申所ニ居申候ニ付、かの所へ可参と、心さし申由申候、然上ハ、惣別筑前へ走候物ハ御誅伐被
ハ誅伐      |   仰付候、則、宇右衛門も此段被承届、上可申由被申候間、御誅伐被 仰付候様ニ可被申上通、
         |  右三使ニて被仰聞候事、
         |一、右、宇右衛門人足、筑前へ走参候を、山知ノ御百性仁左衛門と申ものとらへ申候処ニ、吉右衛門・
         |  平次郎と申もの両人参、手伝仕候由申候也、
         |  (三淵重政)
三淵重政賄目録  |一、右馬助殿御賄目録ニ加判仕、松之御丸衆へ、目録前可被相渡通、申渡候事、
中間小頭遺物ニ脇 |一、御中間小頭與九郎、異物ニ上申候わきさし、子ニもとし可申通、被 仰出ニ付而、もとし申候、
         |       (助脱)
差ヲ上グ     |  但、井関久馬与小頭也、

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■再考小倉藩葡萄酒 (一)ミサ用葡萄酒

2021-03-20 06:57:54 | 小川研次氏論考

  ご厚誼をいただいている小倉藩葡萄酒研究会の小川研次氏から、論考「再考小倉藩葡萄酒」をお贈りいただいた。
私は葡萄酒そのものについては美味しくはたしなむものの、知識はなく門外漢である。
ただ、高祖母の実家・上田家の先祖の一族が日本で初めてといわれる「葡萄酒作り」に携わっていたということを知り、いろいろ調べてきた。
小川氏との出会いはこのことによってである。
         過去の関係ブログ
           ・細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 2007-11-08
           ・黄飯・鳥めし・ナンハン料理 2013-09-03  
           ・大分合同新聞から 2013-10-23 
           ・すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」 2016-11-02

今回の論考「再考小倉藩葡萄酒」は「再考」とあるように、以前「小倉藩葡萄酒」という小冊子が刊行されご恵贈いただいた。
新聞やメディアで騒がれ始め、熊本大学永青文庫研究センターが2018年4月創刊した「永青文庫研究」にに、後藤典子氏により『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』が発表されるに及んで、「小倉藩葡萄酒」は大いに知られることになった。
地元では原料のがらみの栽培が始まり、葡萄酒の復元なども始まって地域おこしの一助にもなっている。
今回の論考についても、後藤氏の論考とは論点を異にするが、ガラシャ夫人をはじめとする切支丹細川氏に対する、小川氏の熱い思いがあふれている。
8回ほどにわたりご紹介申し上げる。

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         再考小倉藩葡萄酒          小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

        はじめに
        小倉藩主細川忠利の命令による葡萄酒製造が行われていた。
        細川家古文書により寛永四年(1627)から肥後国転封の年寛永九年(1632)までの
        六年間の製造が確認された。(熊本大学永青文庫研究センター)
        さて、本稿の目的は「なぜ忠利は葡萄酒を造ったのか」を再考することである。
        熊本大学は葡萄酒を虚弱体質忠利の「御薬酒」と結論付けた。
                   (『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子)
        著者はこの発表のおよそ一年前に拙稿『小倉藩葡萄酒事情』においてキリスト
        教の「ミサ用」とした。この相違についても考察してみよう。

        一、 ミサ用葡萄酒
        天正二十年(1592)、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは布
        教拡大に伴うミサ用葡萄酒の不足を解消するために、ローマに質問書を送る。
        「ミサ」とは、イエス・キリストの「最後の晩餐」に由来するカトリック教会
        の「聖体の秘跡」の典礼である。「聖体」はキリストの肉と血を象徴するパン
        と葡萄酒である。
        「日本に於いて野性の葡萄蔓(エビカズラ)からできる葡萄酒でミサを捧げてよ
        いでしょうか。この野生の葡萄蔓は粒はもっているが葉は小さくて、取れる葡
        萄酒もやや弱いものです。それ故ポルトガルの葡萄酒を足さないと長期の保存
        に耐えません。とはいえ、色、味、蔓はヨーロッパ産のと較べて遜色がある訳
        ではありません。この葡萄酒でミサをすることが許されるでしょうか。あるい
        はそうするのは少なくとも、船の到着が危ぶまれる時だけにした方がよいでし
        ょうか。その際、野生の蔓の葡萄酒とポルトガル産の葡萄酒を分量を少なめに
        して、混ぜ合わせてよいでしょうか。」
                (「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』)
        この質問書はイエズス会総長とローマ教皇に回答を求めたものだが、返書は六
        年後の1598年に日本に届いた。
        「ヨーロッパの葡萄酒がない間は、それを用いてミサをすることができます
        。」(同上)

        このことにより、日本製葡萄酒をミサ聖祭に使用が可能になったが、日本の在
        来種による葡萄酒はアルコール度数が低いために、ポルトガル産を混ぜること
        により長期保存に耐えることにした。
        「野生の葡萄蔓」は当時、キリスト教布教活動の拠点であった九州の「蘡薁・
        エビヅル」であり、東北地方の「ヤマブドウ」と異種である。
        慶長五年(1600)、豊前国へ入封した細川忠興はキリシタンとして死んだ妻玉子
        (洗礼名ガラシャ)のために毎年、命日に記念ミサを挙行した。
        ガラシャを洗礼に導いたスペイン人司祭グレゴリオ・デ・セスペデスは没する
        までの十一年間、小倉教会と中津教会の上長として献身的に尽くした。
        また、慶長十三年(1608)にマカオで司祭に叙階された天正遣欧少年使節の伊東
        マンショは小倉教会に勤め、セスペデスを支えた。
        実は、マンショとワインに関する貴重な記録が残されている。これは当時、日
        本に輸入されていたワインの姿を示唆し、小倉藩葡萄酒にも影響を与えたと考
        えられる。
        スペイン王(兼ポルトガル王)フェリペ二世のお抱え料理人フランシスコ・マル
        ティネス・モンチーノの著書『Gastronomi ia Alicante Conduchos de
        Navidad』(1585年)である。
        1584年12月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節
        の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
        『フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワイン
        は至福の喜びを与えてくれる。そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが
        様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。』
        「王子」は単数形で書かれているが、使節正使の伊東マンショと思われる。
        さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
        「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインのペドロ・ヒメネスと同じ
        であり、カルロス一世(1500~1588)の兵士が造ったことに始まる。」
        つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質
        であったことを意味する。
        現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェードル(仏)マタ
        ロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるの
        だが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟
        成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオ(酸化熟成ワイン)である。

        「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でも白ブドウ「ペ
        ドロ・ヒメネス」を天日干しているヘレスの超甘口シェリーは有名だ。
        現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばと
        される。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
        当時のワインは酒精強化せずに、藁の上で干したり(ストローワイン)、吊るし
        たりして干し葡萄の糖度を上げた高アルコール度数の甘口ワインだった。この
        独特な製法はギリシア、イタリア、フランス、ポルトガルにも存在し、現在も
        伝わる。

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