津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■街角風景・河底のASO4

2021-03-31 15:17:52 | 徒然

 

 私が現在住んでいるところは、地震の大被害を受けて急遽引っ越したところだが、5年近くになるが今一度の引越が億劫で、終の棲家になりつつある。
毎日の散歩で近所をあちこち回って代り映えしない風景をながめているものの、時折新発見をすることが有る。
今日は、水がすっかり干上がった水無川(健軍川)の川底をながめていたら、阿蘇の溶岩流の先端部らしい岩盤が露呈しているのを見つけ出した。
つまり健軍川の流路は、その先端部を削りながら流れを定めたのではないか?
下流部の江津湖などにもASO4の露呈が顕著にみられるから間違いないのではなかろうかと、一人思っているのだが如何だろうか?
そして川の中には、巨大な石が多く鎮座している。石を割るために穴が一直線に穿たれたものもあるが、断念したのか放置されている。
以前もこんなものをご紹介していた。
■街角風景・水無川の巨石
いつもはまったく水がない川だが、少々の雨が降るとあちこちの側溝の水があつまり瞬く間に濁流となり、この巨大な石も飲み込まれてしまうし、川底も削っているのではないかと思われる。

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■薩摩街道・三太郎峠越え

2021-03-31 09:19:42 | 熊本

 先の史談会例会では、熊本の街道シリーズ・第二弾として、「薩摩街道・豊前街道、日向往還」を取り上げた。
講師をお願いした会員のN氏はこれらの道をたどり踏破した人だから、使用させてもらったサイト「豊前街道・薩摩街道、旧街道地図」の一部ルートの間違いを指摘されるほどの達人である。
大変好評を得た企画となり、史談会事務局8年の大役を終えた。

 さて、かってのNHK大河ドラマ「天璋院篤姫」では、鹿児島をはなれ江戸大奥へ入る篤姫は、鹿児島を海路出発したとしている。
これは原作者の宮尾登美子氏の「海路→木曽路」説に由来するものだが、実際は薩摩街道→豊前街道→西国(山陽)街道→東海道(一部・姫街道)と陸路を二カ月かけて参府している。
随分難儀な旅であったろうと思われるが、その手始めがが熊本南部の「赤松太郎峠」「佐敷太郎峠」「津奈木太郎峠」の三太郎越えの旅であったろう。
幅一間ほどの山道であったというから、宮尾登美子氏の提案の如く船旅が楽であったかもしれないが、船旅も又初めてことであれば難儀なことでもある。
200人以上の大行列があの山道を歩いたのだから、大変なことであったろう。
「あの」と書いたが、私はいわゆる薩摩街道も、一部道筋を同じくする明治国道37号線も通った経験はない。
国道3号線が開通するのは昭和40年のことである。

水俣でうまれた徳富健次郎(蘆花)は、その著「死の陰に」で、大正二年九月二日から、妻と養女、養女の家庭教師の三人の女性と共に長い旅に出て、詳しく記録にとどめている。
東海道を汽車で下り、大坂から汽船で別府に入り薩摩を目指している。薩摩からは人吉を通り日奈久へ帰り、日奈久から海路水俣に入っている。その後この三太郎峠越えをして日奈久に戻り、熊本へ向かっている。
その後福岡へ出て、大陸に渡るという旅であった。十一月三十日に東京に帰る大旅行は終了した。

父祖の地である水俣入りについては、次のように記している。

      日奈久温泉から余の祖先墳墓の地且は余の誕生地たる水俣までは、南へ十里。陸路は三太
      郎の峠を越すが、海には小蒸気が通ふて唯二時間餘でつい往かれる。余は日露戦争中鹿児
      島から歸途、菜の花にしとしと春雨の降る日、薩摩の大口から馬車で峠を越えて水俣に一
      泊し墓参もしたが、妻も鶴子もまだ一度も其土を踏んだことはないのである。何を措いて
      も往つて見なければならぬ。そこで日奈久に着いた翌日、九月二十九日の午後、埠頭から
      艀に乗り、沖で小蒸気に移乗し、葦北の海を南に向ふ。
      北と東一帯は肥後の本土、西は天草諸島、南は薩摩と其島にぐるり取りかこまれた東西六
      七里、南北二十餘里、一寸琵琶湖大の此内海は、景行天皇以来大分古い歴史を有つて居て、
      殊に其南部は古来葦北の海と稱へられ、「葦北の野阪の浦に船出して」など歌にも詠まれ
      て可なり歌枕にもなつて居る。(中略)
      日奈久から水俣まで十里の海岸は、所謂三太郎の屏風を延べた様な山つづき。處々或は浅
      く或は奥深く狭い入江が陸に喰ひ込んで、江の頭には屹度川が流れ込み、川の造つた地面
      に町または村が沖から隠れて住むで居る。松や雑木の茂る磯山つづきに、砂浜と云ふもの
      は絶えてなく、其かはり盆景に欲しい様な小島や岩が磯近くちらばつて居る。日奈久沖か
      ら汽船はずつと陸近く寄つて、磯山松の影ひたす碧潮を分け、此處其處で鱸釣る舟を其餘
      波に盪かしつつ、田の浦、佐敷、津奈木と寄るたびに汽笛を鳴らして三人五人艀の客を上
      げ下ろしつつ、南に駛せて早くも水俣に来た。此處は西北に向ふてやや打開け、人家が大
      分、煙突なども見える。

ここで四人は親族や旧知の人達と再会を喜び数日を過ごしている。健次郎は19年ぶりの水俣入りである。
次回は熊本へ向かうための「三太郎峠越え」についての記述をご紹介しよう。

                     
 

 

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■細川小倉藩(533)寛永七年・日帳(十ニ月十五日~十八日)

2021-03-31 07:12:30 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)十五日~十八日

         |                                       
         |   十五日  岩男嘉入 
         |
         |一、助進・兵庫担当也、             (元明)
国東郡へ楊枝ノ用 |一、国東郡へ御郡奉行衆へ、御楊枝木之儀申遣ニ、住江甚兵衛与之中村左兵次兵衛を遣也、
         |     〃                           〃
         |   (信通)
稲葉信通ヨリ打直 |一、稲葉彦四郎様ゟ、打直之御脇差壱つ御越被成付而、佐渡殿ゟ持せ被遣候、則、爰元ためし見可申
シノ脇差     |  由、被仰越候、其段江戸へも可有言上由候也、
江戸へ上ル物数  |一、江戸へ差上申物数之覚
塩鴨       |  一、塩鴨弐百三つ、
干いくら     |  一、干いくら壱斗、
         |  右弐色、南野九郎兵衛・足立與兵衛送り状遣由申候、
宇佐宮歳暮ノ護符 |一、宇佐宮常蔵坊、歳暮之御札持参被仕候、彼坊老足弐御座候間、重而ハ弟子を差上可申由申候被申
         |              (林)
         |  候、尤之由申候事、御札ハ隠岐方へ相渡申候由、被申候申候事、
         |                        〃〃〃

         |                                       
         |   十六日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、江戸へ遣御飛脚二人、幷色々御物積上候、御船頭ハ福良七右衛門と申もの也、
狐ツキノ林某本性 |一、林作左衛門尉本生ニ成申候間、前かとのことく御役儀をも被仰付候様にと、吉田縫殿被申候事、左
         |                                           〃
ニ戻ル      |  様ニ候は、御扶持方をも被遣候様ニと被申候間、尤請取候而可然と、申候事、

         |                                       
         |   十七日  奥村少兵衛 
         |
         |一、兵庫・助進当番、江戸へ言上調申ニ付、修理も登城仕ル、
三斎へ鴨罠ノ靏ヲ |一、服部九郎左衛門、鴨わなニ、去ル十四日ノ夜靏壱つ懸り申候を、則、中津様へ指上申之由候、当
上グ       |  秋之御触ニ、中津国東郡ニ靏居申候ハヽ、中津様へ御左右可申旨ニ候間、右之仕合候由、九郎左
         |        〃〃
         |  衛門ゟ、飛札以、被申越候事

         |                                       
         |   十八日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番助進・兵庫、
         |                (桑原)         (山田)           (狩野)
鉄炮弓足軽交替出 |一、江戸ニ詰候御鉄炮衆之かわり、主殿与大槻吉兵衛・市左衛門与之御弓衆二人、かの小源五・福王        |                                       
府  福王十蔵  |  十蔵出船候事、
         |       (城信茂)     (親直)                            (武次)
府内横目へ音信物 |一、苻内御横目城野織ア殿・駒井次郎左衛門殿へ之御音信物、次夫にて遣候、御使者牧丞太夫也、
         |  被遣候物、大樽三つ宛、鴨十廿宛、さうめんばこ壱つ宛、なんはんつけ壱つほつゝ也、
         |              〃
         |           御家中へ              (甲賀郡)
大坂塩屋藤左女房 |一、大坂塩屋藤左衛門、〇貸付銀之儀ニ付、彼女房江州土山迄、 殿様御跡をしたい参り、直奏を可
家中貸付銀ノ催促 |       (加々山可政)    (冨田)(津川辰珍)
直訴セントス   |  仕と申候を、主馬・権右衛門・十太夫・四郎右衛門殿ゟ、爰元へ被差下候、其ニ付、御家老衆ゟ
家老等談合ス   |          (加々山正慶)
         |      (有吉英貴)
         |  よびニ参、頼母殿へ三人参り、御談合承候事、
         |                  (長氏)
三斎へノ歳暮ノ使 |一、中津様へ御歳暮之御使者ニハ、平野九郎右衛門遣候へと、御家老衆被仰候間、申渡候事、
者平野長氏    |
慶徳院ノ賄    |一、小林半三郎、慶徳院殿賄之儀ニ付、御家老衆ゟ、よひニ遣候へと被仰付候間、よひニ遣候也、
         |      乙丸村
人質ヲ盗ミシ庄屋 |一、由布院之〇庄や藤左衛門儀、う野七右衛門ゟ、采女殿家老衆へ申遣候ハ、御領分之者之儀ニ候間、
ヲ竹中家老ヨリ請 |  私心得にてハ不罷成候間、此方へ御渡候へと申、請取、其所にて誅伐仕由、七右衛門ゟ申来候と、
取リ誅伐ス    |  御家老衆被仰聞候事、
慶徳院ノ賄    |一、慶徳院殿賄はたと不相成ニ付、在郷へ引こミ可申由、達而被申候へ共、在郷へ遣申儀ハ不相成候
         |                     御    かし
         |  条、重而、江戸へ可得 御諚申候、其内先〇米五石〇被遣、当分御つゝき候様にと、御家老衆御
         |                    粟野伝介
         |  相談之上ニ而、被仰聞候間、則、松丸衆〇へ申渡候事、
旧主水夫かの介ノ |一、当町清左衛門尉舟ニ、かの介と申ものやとい、上せ申候処ニ、大坂にて、かの介主人見、相渡被
身柄ヲ求ム    |  下候様ニと申候処、寺嶋主水、国と国との御さた候様ニと、返事仕由被申下候、大坂にてからめ、
国ト国トノ沙汰  |  かの清左衛門舟ニ下り申候、則、町籠ニ入置候事、
町籠ニ入レシム  |

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