津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(526)寛永七年・日帳(十月廿三日~廿五日)

2021-03-24 15:03:01 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十月)廿三~廿五日

         |                                       
         |   廿三日  奥村少兵衛 
         |
町奉行元屋敷出火 |一、夜前、吉田縫殿元屋敷ニ火事出来申候、神原長兵衛抱置申荒仕子、火事出申候、かのものハ走申
火元ノ荒仕子ハ走 |  由、平二郎申来候事
ル        |
遠坂與右初見   |一、遠坂與右衛門、京御礼被申候事、
         |一、安井長左衛門子、右同前、
安井長左死跡ノ処 |一、安井長左衛門尉相果候ニ付、せかれニ御知行五拾石被下、親ノ■家を抱申儀難成御座候、先上申
置        |  度候、重而相当之屋敷拝領仕度由、被申候服部左太右衛門被申候、書物御家奉行日差上候、家や
         |          申渡候事、
         |  しき可被請取由、書付仕、相渡候事、
         |          〃〃〃 〃〃〃〃

         |                                       
         |   廿四日  加来二郎兵衛 
         |
大手門番人病死ノ |一、大手御門番、村田六兵衛病死仕候跡替ニ、西沢与児玉孫左衛門上り人ニ仕、御切米を半分ニ仕、
跡替       |  入申候事、
質部屋番人病死ノ |一、しちへや御番、伊藤十介病死仕候跡替ニ、山川惣右衛門与坂口仁兵衛上り人ニ仕、御切米を半分
跡替       |  ニして入申候事、
口屋ノ番人病死ノ |一、口屋の御番、山本理兵衛病死仕候跡替ニ、財津惣左衛門与塚本理左衛門上り人ニ仕、御切米半分
跡替       |  ニして入申候事、
町籠ノ番人病死ノ |一、町籠之御番、堀口甚右衛門尉病死仕跡替ニ、浅山修理与白木牛介上り人ニ仕、御切米半分ニして、
跡替       |  入申候事、
         |          浜 名 納 豆
浜名納豆     |一、うさの西院所へ、はまななとう取ニ被遣、来候間、高見猪介ニ渡、御前ニ上申候事、
         |  (規矩郡)                         ( 幟 )
天ノ網      |一、篠崎之御百生源右衛門と申もの、参候而申候ハ、てんのあミを、御のほり衆ニ御ゑさし衆かり参、
         |  ひき申候ニ付、御印を合せ可申と申候ヘハ、 御意にて参候、 御印ハ無之由、被申候、如何と
         |  申候、よく申来候と申聞、戻候事、
松山源丞邸ニ臨  |一、今日、松山源丞所へ被成御成候事、左候而、銀子十枚、其外御小袖色々被為拝領候事、
作事奉行ニ米賞与 |一、林弥五左衛門ニ米弐拾石被下候事、
         |                        (辰珍)
入江仁兵衛跡式甥 |一、入江仁兵衛知行、兄子平八ニ不残被遣候旨、津川四郎右衛門殿ニ而被 仰出候、平八ハ忌中にて
         |          (松井興長)    (米田是季)
平八ニ賜与    |  不罷出候ニ付而、佐渡守殿御礼被仰上候、監物殿も忝通、御礼被 仰上候也、

         |                                       
         |   廿五日  奥村少兵衛 
         |                           (正成)
忠利鷹狩晩藪正成 |一、今朝未明ゟ、御鷹野ニ被成 御座候、左候而、今晩は、藪図書所へ被為成筈にて候事、
邸ニ臨ム筈    |
         |                                       (皆川)
         |一、国遠道倫ゟ、 御前へ上り申書物、但、高本千久浦ニ当申候を、被差上候間、則、治アに渡、上
         |  候へと、申渡候事、
         |   (幸長)
茶道永谷道也召出 |一、野田小左衛門被申候ハ、永谷道やと申茶道、今日 御前相済、御礼被申上候、御奉行所へも罷出
二百石      |                       (奥村)
         |  御礼可申旨、被申候間、召連、参上仕候へ共、少兵衛ニ申置候由、被申候、但、知行ハ弐百石也、

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■散歩がてらの御買物

2021-03-24 12:01:38 | 徒然

                               

 27日の史談会例会を前にして、講師をお願いしたN氏から、レザーポインターを準備してほしい旨の連絡があった。
会場に問い合わせたところ、備え付けはないという。
今後も使うものだから会の備品として購入しようと思い、Amazonに注文しようと思ったがどうも間に合いそうもない。
熊本駅前にビッグカメラが進出したというから、整備を終えた駅前広場を見学がてら出かけようと思ったが、奥方が別の用で出かけるというので断念。
朝の散歩がてら30分ほどの距離にあるベスト電器に出かけてCanonのPR500-RCを購入する。
この品一つしかなくメーカーの選択の余地はない。そして気に食わぬのはAmazonより500円ほど高いことだ。
熊本史談会15年の歴史での備品第一号である。今後いろいろ活躍してくれることだろう。

 

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■再考小倉藩葡萄酒 (四)忠興の仕打ち

2021-03-24 06:43:53 | 小川研次氏論考

        四、忠興の仕打ち

        元和四年(1618)、忠興は領内のキリシタンを処刑する。
        「豊前の大名越中殿(細川忠興)は長い間、好意を示してきたが、今度、政治的
        利害と傲慢から、宗教とその宣教師の敵として名乗を上げた。この年の記録に
        は、六箇国(六郡)に三十七人の殉教者を数え、その中ある者は斬首され、他は
        逆さ吊るしにされた。」(『日本切支丹宗門史』)
        1618年2月25日、小倉で処刑されたヨハネ久芳又左衛門(くばまたざえもん)は
        、中津城にいた忠利の家老であった。
        1614年に忠興の命により棄教していたが、翌年、ドミニコ会のハシント・オル
        ファネル神父を自宅に泊めたところ、説得されキリシタンに立ち返ったのであ
        る。(同上)
        神父自身による報告集によると「又左衛門は(私)が豊前国を通過したときに(私
        を)中津の市(まち)の邸に泊めた人物であった。」(オルファネル『日本キリシタ
        ン教会史』) とあり、当時の状況を詳細に記している。
        「特に豊前国では殿(細川忠興)が悪魔、キリスト教に対する心底からの敵、怒
        りっぽい狂人じみた人物であったので、キリシタンたちは怯え慄いていた。し
        たがって、キリシタンはパードレ(神父)に会いに行くのが至難の業だと感じ
        ていた。
        しかし、それにもかかわらず、ごく密かに、時ならぬ頃であったが、会いに行
        った。このような障害があったにせよ、同パードレは多数のキリシタンがいる
        ことを知ったので、殿の居住地・小倉Coduraの市へ辿り着きたいと思った。
        このためにパードレは小倉の地にいる旨をキリシタンに知らせるため一人の男
        を派遣したが、小倉の情勢は極めて厳しかった。とくに前述したドン・ディエ
        ゴ隼人(加賀山隼人)は、今は来るべき時期ではないと知らせてきたので、パー
        ドレは他の地を通って同豊前国の中津の市へ行った。しかし、市のキリシタン
        は物凄い恐怖を感じていたので、敢えて泊めてくれる者は居ないのではないか
        と懸念したが、市に住んでいた殿の長男(三男忠利だが、嫡男の意味)の代理者(
        家老)たる一人の武士が、喜んで大胆にも宿を提供した。彼はパードレが既に到
        着し、市の外れで待っていることを知ると、「ようこそお越し下された。夜に
        なったらパードレ様をご案内するこの者と共に市にお入り下さい」と告げる使
        者を送った。
        この武士の名はユアン(ジョアン)又左衛門といい、パードレが彼の屋敷に数日
        滞在した時、告解のためにごく密かに何人かのキリシタンを招くと共に、彼自
        身も妻も告解をし、パードレとの別れに際しては一日の旅程に伴をつけた。」(
        同)
        1615年の初夏と思われ、昨年から続いた大阪の陣が終局を向かえた直後であろ
        う。
        元和三年(1617)の『コーロス徴収文書』に豊前国中津の代表者の一人に「久芳
        寿庵」の名がある。寿庵はジョアンで、ヨハネである。キリシタンに立ち返っ
        た又左衛門はコンフラリア(信徒組織)の組頭として、イエズス会への文書に署
        名していたのだ。
        しかし、忠興は狙い撃ちしたように又左衛門を処刑したのである。
        「殺害の理由を告げずに謀殺される者もいた。」(同)
        忠利の怒りが伝わる。親子の確執はここから始まったのか。
        あくまで「家」を守る父と「母の魂の救済」とともにキリシタンを守る息子と
        の対立である。

        又左衛門の処刑の翌日、中津で息子のトマスも斬首された。(『日本切支丹宗門
        史』)
        中津関連の処刑されたキリシタンは13名に上る。忠利の家臣もいることから、
        忠興への情報提供者がいたと考える。 
        細川家『切支丹類族帳』に「故越中守召仕古切支丹久芳又左衛門系」とあり、
        子孫四代までも監視体制の対象となっていた。(『肥後切支丹史』)
        翌年の1619年、豊前国キリシタンの柱石である重臣加賀山隼人は小倉で処刑さ
        れるが、この年の処刑は棄教に応じない隼人への見せしめともいえる。
        中津は下毛郡にあり、慶長五年(1600)に入封後、隼人は郡奉行であった。
        隼人の布教活動により中津を中心に宇佐郡、速水郡と並び多くのキリシタンが
        いた。

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