四、九州仕置
秀吉は天正十五年(一五八七)三月に大軍と共に九州に上陸し、南下していく、ついに四月、薩摩に入った秀吉の軍門に島津義久は降る。
同年七月三日、秀吉は小倉城にて九州仕置をし、官兵衛は豊前国「京都(みやこ)・築城・中津(仲津)・上毛(こうげ)・下毛・宇佐」(黒)の六郡を拝領した。また、同日の知行宛行状に興味深いものがある。
「今度、御恩地として、豊前国京都・築城・上毛・下毛・中津・宇佐内に於いて、検地の上を以て千石の事、宛行われ畢(おわんぬ)。全く領知致し、黒田勘解由に与力せしめ、自今以後、忠勤抽んずべく候也。天正十五年七月三日 (秀吉朱印)
時枝武蔵守とのへ」(北九州市立自然史・歴史博物館蔵)
秀吉は武蔵守(鎮継)を官兵衛の家臣としてではなく、与力として迎えた。
地侍の懐柔策とも取れるが、鎮継は先述の通り天正十三年(一五八五)に時枝城を捨て小早川隆景の元へ敗走していた。しかし、鎮継の武将としての力量や地侍へのリーダーシップを見込んでの知行割当であったとみる。
何よりも鎮継と官兵衛との強い絆を感じる。
ちなみに長野三郎左衛門は小早川隆景の与力として筑後国へ移った。(『豊前長野氏史話』)
しかし、豊前国では反豊臣の煙が燻っていた。そしてこの時こそ、鎮継の本領が発揮されることとなる。
五、城井誅伐
『黒田家譜巻之五』は「天正十五年(一五八七)の秋、豊前入国以後の事をしるす」とあり、官兵衛は豊前入国し、「時枝の城にて、領地の仕置を沙汰し、三カ条の制法を出し給ふ。」とある。主人親夫に背く者や殺人・窃盗などに対して厳罰に行うとしている。
歴史学者の小和田哲男氏は「三カ条の定は、如水が時枝城から出したといわれるのも、このころの如水と時枝武蔵守の関係をうかがう上において興味深い。」『黒田如水』)としている。
さて、豊前萱切城(かやきりじょう)城主宇都宮鎮房(城井しげふさ)に対して、秀吉は伊予国への転封を命令した。しかし、鎮房はこの知行宛行状を返上したのだ。
先祖伝来の仲津郡城井(築上郡築上町)を離れることができなかったのである。
折しも肥後国で一揆が起き、官兵衛は鎮圧のために赴いたところに、肥前や豊前で一揆が蜂起されたのである。
「然る処に、豊前の国士等所々に兵を起し、各城に立籠るよし、」(黒)
十月一日、馬ヶ岳城にいた長政に一報が届いた。
「其外豊前の国士、時枝の城主時枝平大夫、 其弟宇佐の城主宮成吉右衛門、廣津の城主廣津治部大輔等は、孝高豊前を領し給ふ時、はやく出て旗下に属し馳走しける。」(黒)
平太夫鎮継と「弟」の宮成吉右衛門とあるが、「弟」ではない。先述したが、宇佐宮大宮司宮成公建の次子隆令(たかよし)の子である。隆令が時枝家を相続したところから、混乱したのだろう。また、「孝高(官兵衛)豊前を領し給ふ」以前に既に麾下していた。早速、豊前国士三人衆は長政のもとへ駆けつけたのである。
さて、長政は側近の反対を押し切り、二千余の兵と共に宇都宮誅伐へ城井を目指すことになるが、敗北を喫する。黒田軍唯一の黒星となった岩丸山の戦いである。二十歳の長政は「先手敗軍せし事遺恨至極なり。引返して勝負を決すべし」(黒)と敵軍へ向かっていくところに、黒田三左衛門(一成)が必死に馬を止め、「犬死でござるぞ」と諫めた。三左衛門は官兵衛の恩人加藤重徳の次男であり、官兵衛の養子となっていた。
官兵衛実弟の兵庫助(利高)が居城高盛への帰路で「然るに宇佐郡の一揆、又豊後境の一揆とひとつになり、宮成吉右衛門か居たりし宇佐の城をせむる由」(黒)と聞き、宇佐城に馬を走らせた。
「時枝の城よりも、時枝平大夫出て、宇佐の城へ馳向ひ、兵庫と同じく後攻して、散々にたたかいひけるが、」(黒) 敵方は討たれ、残兵は逃げていった。
一方、長政は特に時枝城には兵を送り込んで固めていた。
宇佐郡の国士らの警戒から、黒田兵庫助と母里太兵衛に担当させ、兵庫助は人物だったとみえ、「宇佐の神主宮成吉右衛門も兵庫助におもひ付て、いよいよ忠を励しける。」(黒)とある。又、「彼郡の者共、多くは宇佐八幡の社人なれは、宮成か下知を背かず。かくありし故、宇佐には其の後、乱を起す者なく静謐になりぬ。長政、宮成がはやく降参し、宇佐の城をよく持ちこたへ忠節有しを感じて、黒田の姓をさづけ、家禄を與え給ふ。」(黒)
こうして宇佐宮大宮司だった宮成吉右衛門は黒田吉右衛門政本となる。
また、時代が下るが、慶長元年(一五九六)に如水(官兵衛)の意見により、吉右衛門の息女と到津公兼の子豊寿が結ばれて、豊寿は大宮司宮成公尚(きみひさ)となる。これは吉右衛門の長子で大宮司だった松千代丸の早世による。(「宮成文書」『宇佐神宮史』)
慶長五年(一六〇〇)、黒田家は筑前国へ転封するが、「慶長分限帳」(『福岡藩分限帳集成』)に「黒田吉右衛門政本」の名がないが、後述する第三子の「千石 黒田安太夫」『黒田三藩分限帳』)、「寛文分限帳」(一六六一〜七三)に「千百石 黒田吉右衛門政仲」とある。
やがて、宇佐群衆一揆は鎮圧され、城井谷の宇都宮鎮房もついに観念し、和睦を申し出た。
しかし、翌年天正十六年(一五八八)に、長政は鎮房を中津城での宴席に招き、謀殺した。家臣らは寺町の合元寺(中津市寺町九七三番)に籠ったが、黒田勢から皆殺しされ、その血が門前の壁を赤く染めた。何度も塗り替えたが血が滲み出るので、赤塗りにしたという伝承が伝わる。
別名赤壁寺といわれる合元寺