津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(四)九州仕置 (五)城井誅伐

2021-03-10 16:34:40 | 小川研次氏論考

四、九州仕置

秀吉は天正十五年(一五八七)三月に大軍と共に九州に上陸し、南下していく、ついに四月、薩摩に入った秀吉の軍門に島津義久は降る。
同年七月三日、秀吉は小倉城にて九州仕置をし、官兵衛は豊前国「京都(みやこ)・築城・中津(仲津)・上毛(こうげ)・下毛・宇佐」(黒)の六郡を拝領した。また、同日の知行宛行状に興味深いものがある。

「今度、御恩地として、豊前国京都・築城・上毛・下毛・中津・宇佐内に於いて、検地の上を以て千石の事、宛行われ畢(おわんぬ)。全く領知致し、黒田勘解由に与力せしめ、自今以後、忠勤抽んずべく候也。天正十五年七月三日 (秀吉朱印)
時枝武蔵守とのへ」(北九州市立自然史・歴史博物館蔵)

秀吉は武蔵守(鎮継)を官兵衛の家臣としてではなく、与力として迎えた。
地侍の懐柔策とも取れるが、鎮継は先述の通り天正十三年(一五八五)に時枝城を捨て小早川隆景の元へ敗走していた。しかし、鎮継の武将としての力量や地侍へのリーダーシップを見込んでの知行割当であったとみる。
何よりも鎮継と官兵衛との強い絆を感じる。
ちなみに長野三郎左衛門は小早川隆景の与力として筑後国へ移った。(『豊前長野氏史話』)
しかし、豊前国では反豊臣の煙が燻っていた。そしてこの時こそ、鎮継の本領が発揮されることとなる。


五、城井誅伐

『黒田家譜巻之五』は「天正十五年(一五八七)の秋、豊前入国以後の事をしるす」とあり、官兵衛は豊前入国し、「時枝の城にて、領地の仕置を沙汰し、三カ条の制法を出し給ふ。」とある。主人親夫に背く者や殺人・窃盗などに対して厳罰に行うとしている。
歴史学者の小和田哲男氏は「三カ条の定は、如水が時枝城から出したといわれるのも、このころの如水と時枝武蔵守の関係をうかがう上において興味深い。」『黒田如水』)としている。

さて、豊前萱切城(かやきりじょう)城主宇都宮鎮房(城井しげふさ)に対して、秀吉は伊予国への転封を命令した。しかし、鎮房はこの知行宛行状を返上したのだ。
先祖伝来の仲津郡城井(築上郡築上町)を離れることができなかったのである。
折しも肥後国で一揆が起き、官兵衛は鎮圧のために赴いたところに、肥前や豊前で一揆が蜂起されたのである。
「然る処に、豊前の国士等所々に兵を起し、各城に立籠るよし、」(黒)
十月一日、馬ヶ岳城にいた長政に一報が届いた。

「其外豊前の国士、時枝の城主時枝平大夫、 其弟宇佐の城主宮成吉右衛門、廣津の城主廣津治部大輔等は、孝高豊前を領し給ふ時、はやく出て旗下に属し馳走しける。」(黒)

平太夫鎮継と「弟」の宮成吉右衛門とあるが、「弟」ではない。先述したが、宇佐宮大宮司宮成公建の次子隆令(たかよし)の子である。隆令が時枝家を相続したところから、混乱したのだろう。また、「孝高(官兵衛)豊前を領し給ふ」以前に既に麾下していた。早速、豊前国士三人衆は長政のもとへ駆けつけたのである。

さて、長政は側近の反対を押し切り、二千余の兵と共に宇都宮誅伐へ城井を目指すことになるが、敗北を喫する。黒田軍唯一の黒星となった岩丸山の戦いである。二十歳の長政は「先手敗軍せし事遺恨至極なり。引返して勝負を決すべし」(黒)と敵軍へ向かっていくところに、黒田三左衛門(一成)が必死に馬を止め、「犬死でござるぞ」と諫めた。三左衛門は官兵衛の恩人加藤重徳の次男であり、官兵衛の養子となっていた。

官兵衛実弟の兵庫助(利高)が居城高盛への帰路で「然るに宇佐郡の一揆、又豊後境の一揆とひとつになり、宮成吉右衛門か居たりし宇佐の城をせむる由」(黒)と聞き、宇佐城に馬を走らせた。
「時枝の城よりも、時枝平大夫出て、宇佐の城へ馳向ひ、兵庫と同じく後攻して、散々にたたかいひけるが、」(黒) 敵方は討たれ、残兵は逃げていった。
一方、長政は特に時枝城には兵を送り込んで固めていた。
宇佐郡の国士らの警戒から、黒田兵庫助と母里太兵衛に担当させ、兵庫助は人物だったとみえ、「宇佐の神主宮成吉右衛門も兵庫助におもひ付て、いよいよ忠を励しける。」(黒)とある。又、「彼郡の者共、多くは宇佐八幡の社人なれは、宮成か下知を背かず。かくありし故、宇佐には其の後、乱を起す者なく静謐になりぬ。長政、宮成がはやく降参し、宇佐の城をよく持ちこたへ忠節有しを感じて、黒田の姓をさづけ、家禄を與え給ふ。」(黒) 
こうして宇佐宮大宮司だった宮成吉右衛門は黒田吉右衛門政本となる。
また、時代が下るが、慶長元年(一五九六)に如水(官兵衛)の意見により、吉右衛門の息女と到津公兼の子豊寿が結ばれて、豊寿は大宮司宮成公尚(きみひさ)となる。これは吉右衛門の長子で大宮司だった松千代丸の早世による。(「宮成文書」『宇佐神宮史』)
慶長五年(一六〇〇)、黒田家は筑前国へ転封するが、「慶長分限帳」(『福岡藩分限帳集成』)に「黒田吉右衛門政本」の名がないが、後述する第三子の「千石 黒田安太夫」『黒田三藩分限帳』)、「寛文分限帳」(一六六一〜七三)に「千百石 黒田吉右衛門政仲」とある。

やがて、宇佐群衆一揆は鎮圧され、城井谷の宇都宮鎮房もついに観念し、和睦を申し出た。
しかし、翌年天正十六年(一五八八)に、長政は鎮房を中津城での宴席に招き、謀殺した。家臣らは寺町の合元寺(中津市寺町九七三番)に籠ったが、黒田勢から皆殺しされ、その血が門前の壁を赤く染めた。何度も塗り替えたが血が滲み出るので、赤塗りにしたという伝承が伝わる。


別名赤壁寺といわれる合元寺

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■細川小倉藩(512)寛永七年・日帳(九月朔日~三日)

2021-03-10 09:44:53 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)朔日~三日

         |                        
         |   朔日  奥村少兵衛
         |
         |                                       (沢村吉重)
         |一、長崎ゟ、此比参候御昇衆善右衛門以、今日長崎へもとし申候、我等共ゟノ状一つ、大学殿ゟノ状
         |      (三淵重政)
         |  壱つ、右馬助殿ゟノ状壱つ持せ遣候也、
         |                                         (相模鎌倉郡)
三斎ノ飛脚    |一、三斎様ゟ、御飛脚弐人参候、江戸を廿一日ニ、 三斎様御供仕、罷立、同日戌ノ上刻ニ、戸塚ゟ
         |  御先へ罷上、廿五日ノ刁ノ刻ニ、大坂へ着申候也、
         |   (辰珍)
         |一、津川四郎右衛門尉殿へ、小野九右衛門尉所ゟ下候かミ袋壱つ、四郎右衛門殿へ直ニ相渡候事、
         |                                (田中氏次)
忠利印籠     |一、式ア殿奉にて、上方ゟ下候御印籠を、つゝミ之侭、竹原少太夫ニ、兵庫渡候事、
         |
請取       |一、坂崎清左衛門殿ゟ、清田七介所へ被遣しふかミ包壱つ、慥請取申候、
         |                         清田七介内
         |                           三木四郎三郎(花押)
請取       |一、小野九郎右衛門殿ゟ、谷忠兵衛所へ被指下候かミ袋壱つ、慥請取申候、
         |                         忠兵衛内
         |                           丸野七左衛門(花押)
忠利溜池ノ簗ニ遊 |一、ためいけのやなへ被成御座、井出を御おとされなされ候也、
ブ        |
         |一、京都九右衛門所ゟ、大塚長庵所へ参候かミふくろ壱つ、御掃除坊主ノ休清を以、相渡申候事、
三淵重政出船   |一、今晩、長岡右馬助殿御出船候也、   

         |                        
         |   二日  奥村少兵衛
         |
         |  (田川郡)
岩石ヨリ松茸   |一、岩石ゟ、松茸七本参候事、
宇佐ヨリ占地茸  |一、う佐郡ゟ、しめちたけ参候事、          (元明)
舞茸上ル     |一、昨日、坂本仁兵衛ゟ、まふたけ壱籠差上被申候由、住江甚兵衛被申候事、
         |一、藤北九右衛門・藤掛蔵人殿へ参候しふかミつゝミ壱つ、相渡申候也、
請取       |               右請取申候、  蔵人内 ほき伝右衛門〇(黒印)
         |一、長崎ニて、半藤上右衛門尉・安井太右衛門尉方へ被遣御状壱通、幷右両人之造佐銀之由ニ而、壱
         |  包苻之まゝ請取申候、長崎へ御舟ニのり罷下候御船頭吉田理兵衛・三宅清助、此両人ニ慥ニ相渡
請取       |  可申所如件                小早ノ御船頭 
         |                           河村喜左衛門尉(花押)
         |一、又、式ア殿ゟ長崎へ之文箱壱つ、又、半藤一兵衛方ゟ上右衛門方へ参刀壱腰、右同前ニ請取申候、
         |  右ノ清助・理兵衛ニ相渡加申候、          河村喜左衛門尉(花押)
御借米ニ請人貸ノ |一、御家中への御借米ニ、請人かしと申儀、堅仕間敷候由、右ニ被仰出候へ共、今朝加藤新兵衛・粟
禁ヲ解ク     |  野伝介・豊岡甚丞ニ被 仰出候ハ、請人かしも不苦之由、右三人へ被仰付候通、三人衆被申候事、
         |                (忠泰)  (利政)                       (宇)(友好)                 
豊後府内幕府目付 |一、豊後ゟ、原久助被罷戻候事、赤井豊後様・斎藤左源太様ゟ之御返事二通、久助持帰ル、松井う宇
ヨリノ返書    |  衛門当番ゆへ、被上候へと申候而、二郎兵衛ニ持せ上候へ共、う右衛門未上り不被申ニ付、御番
         |  ノ下村五兵衛・高田十兵衛ニ具申渡置候、う右衛門被上次第、此通具ニ可被申届由申候、爰元
         |  
忠利小袖ヲ贈ル  |  別苻迄ハ歩之御小性原久介御小袖持参仕り、宇野七右衛門御使者ニ参候、御口上有之ハ、書付可
         |  被申上由、七右衛門所へ申遣候ヘハ、節々御音信忝可被思召由迄ニ候由申候事、
長崎ヨリ唐木綿  |一、長崎ゟ、唐木綿弐たん幷鉢壱つ、御飛脚ノかへりニ差上せ候、則、上申候也、        

         |                        
         |   三日  奥村少兵衛
         |
忠利北ノ丸ニ早朝 |一、早朝ゟ、北ノ御丸ニ被成御座候事、
ヨリアリ     |

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■紙面の中のミステリー

2021-03-10 06:57:25 | 徒然

 東京で御軸やお茶に関する御道具などの御商売をされているF様から、毎月その御品のカタログが送られてくる。
切っ掛けは、細川家関係の御軸の内容についてお問い合わせをいただいたのが、最初のように思う。
もう5~6年以上という長いお付き合いになった。
今月もお送りいただいたが、16点の御品の中に細川三齋に関するものが二つあった。
一つは「茶会記」、もう一つは「音信に対する礼状」である。それぞれが興味深いものだが、後者などはよくよく紙面の内容を検討すると誠にミステリアスである
(写真のご紹介は控える)

■茶会記  正客・阿野大納言殿 連客・萩原兼従・下坊(愛宕山福寿院)・松□□ 御詰・休無(細川忠隆
      御道具付 墨跡ー金渡・花入ーはたソり・水さしーいも頭・茶入ー山の井・茶碗ーもんこうらいはちひらき
           茶杓ー利休・水下ーめんつ

  十二日・十三日の連日茶会が開かれているが、これは十三日のもの、御客は親族や親しい人が連なっている。
  道具付にある「山の井(肩衝)」は小説「小壺狩り」でも知られ、後には大名物になった名品だが、これは松井康之
  が所蔵していたもので、その死(慶長17年1月22日)に際し、遺言で忠興に献上したものである。
  その他、名品が目白押しの茶事である。)判読不明の「松□□」は松井家関係者か?(松屋久重は考えすぎか?)

■音信に対する礼状 これは松井采女の祝言に当り、牧平左衛門がお祝いの品を上げたことに対する、三斎の礼状である。

             以上
              采女祝言ニ付
              差越使者干鯵
              一折十五連到
              来喜悦候一色
              木工可被申候 謹言
              六月十七日 宗立(花押)

                牧平左衛門殿

  いつの時代かを推測するには、三斎の署名が宗立であること。
  松井采女の奥方は、忠興(三斎)により誅伐された飯岡豊前の娘であること。
  ここではたと行き詰ってしまう。三斎の宗立の名乗りは隠居(元和6年閏12月)時からであり、飯岡豊前と息・長岡
       肥後及び一族22名が誅伐された事件は、慶長11年7月の事であるから、辻褄があわない。

  この事件の際、松井采女に嫁いだ豊前の娘も実方の屋敷に籠り、一族と共に死んだのではないか・・・
  そしてこの三齋の書状は、妻を亡くした采女の再婚話なのではないか。
  細川家の黒歴史ともいえるこの事件は、弟・忠利に代り江戸證人に立てられた細川興秋の出奔が原因しているとさ
  れ
る。豊前の息・長岡肥後が興秋付の家老ともいうべき立場であったので、徳川の圧力によりこのような結果を招
  いた
と思われる。忠興としては無念の決断であったろうし、豊前の娘の死やその夫・采女に対する深い想いがあっ
  たのではないか。これは私の推測に過ぎないが・・・

  一色木工とは一色杢のこと、槇嶋昭光(云庵)の弟であり、二人して忠興の側近である。
  牧平左衛門は、忠興から「興」の文字を拝領した牧興相(6,000石)の嫡男(善太郎・四郎右衛門・平左衛門)である。

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