津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(516)寛永七年・日帳(九月十四日~十八日)

2021-03-14 08:01:17 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)十四日~十八日

         |                        
         |   十四日  加来二郎兵衛
         |
諸方ヘノ書状覚  |      御飛脚ニ渡候 御書箱ノ覚
         |  一、三斎様へ被進せ候 御書箱壱つ、
         |    (三淵重政)  (成政)
         |  一、長岡右馬助殿・坂崎清左衛門へ遣候 御書箱一つ、
         |    (松井興長) 
         |  一、式ア少殿ゟ、清左衛門への文箱一つ、
         |          (吉田浄元)
         |  一、式ア少殿ゟ、盛方院への文箱一つ、
         |                                    医師。宮内卿・盛方院。吉田浄慶の男。元和七年従二月遺跡を継ぎ、采地五百石知行。寛永元年法眼、のち法印。
                                                                                                          寛永九年三月十七日歿。年五九。母は松井康之の女。
         |  右は牧丞大夫与白木八兵衛・黒部吉兵衛与服部喜右衛門、両人ニ相渡申候也、
         |一、修理方ゟ、仁保太兵衛かたへの状壱つ、右ノ御飛脚ニ渡候也、
備前焼ノ壺ヲ松丸 |一、松之御丸ノ庭ニ御座候備前之かめつぼ一、北の御丸へ御用之由候て、治ア方へ相渡候也、
ノ庭ヨリ北ノ丸へ |
移ス       |                                    
         |一、式ア少殿ゟ、河喜多五郎右衛門・釘本半左衛門方へ被遣候御状、国友武右衛門方ニ言伝遣申候也、
         |                               
大脇差代銀八十匁 |一、臼杵ヨリ御飛脚参候由、式ア殿被仰候、御あつらへ被成候大わきし参候、代銀八十っめ被遣候事、
藤井某母ヲ紀伊ニ |一、藤井権兵衛、紀州国へ御暇申、母見廻ニ罷越、彼地にて煩、相果申儀、弥必定ニて御座候由、申
見廻病死ス    |            (氏久)
         |  来候通、湯浅角兵衛・田中猪兵衛登城にて被申候事、  

         |                        
         |   十五日  奥村少兵衛
         |                          (蕃)八條宮(桂宮)諸大夫
北ノ丸ニテ生嶋秀 |一、けさは、北ノ御丸にて御すき被成候、御客人ハ生嶋玄番也、
成ニ茶ヲ饗ス   |
         |                         
大貞社米貸付帳ヲ |一、大貞社米宇佐郡之御かし付帳・上毛ノかし付帳、両〇人之御郡奉行ニ相渡候也、
郡奉行へ渡ス   |                          〃

         |       (ママ)                        
         |   十六日  
         |
田川ノ宿割奉行ニ |一、田川御宿わり奉行ニ遣候かちの御小性池上加介・原田理右衛門・杉原忠兵衛、
歩小性      |
客人付小性    |一、御各人ニ付遣候かちノ御小性、井門助丞・中山又右衛門、
         |                        (加々山可政)
合羽       |一、かつはのそミ被申御詰衆ノ書付、和慶作ニ渡、但、主馬方ノ使ニ参候也、
逸鷹ヲ居上グ   |一、それ申候御鷹哉らん、すゝ付申候御鷹、ため池ノやなノ所ニ参候を、すへ上申義ニて、谷忠兵衛
鈴板ニ長岡河内ノ |                    (村上景則)
銘アリ      |  与塚本少介すへ参候事、但、すゝいたニ長岡河内と有之也、

         |                        
         |   十七日  奥村少兵衛
         |
羅漢寺ノ坊主物ヲ |一、吉田縫殿被申候ハ、西ノ羅漢寺ニ、中津ゟ坊主一人此中参居候而、少宛ノ物いろ/\ぬすミ、若
盗ミ若松ニ預置ク |  松へ持参候而、預置申候、せんさく仕候処、かの坊主むすミ候ニ相究候、若松へ取ニ参候而、そ
         |  れ/\へ返シ申候、御家老衆へも此段申候処、御奉行衆へも申理、払候へと被申候、かの坊主本
追放セシム    |  国ハ肥前ノものにて御座候由、被申候間、御家老衆其分ニ被仰候上ハ、一段可然候間、払可被申
         |  と申渡候事、
忠利安国寺へ赴ク |一、今朝は、安国寺へ被為成候事、
         |一、木下右衛門様ゟ御飛脚参候、則、 御返書出申候間、持せ遣候事、
大坂ニ売馬三十疋 |一、式ア殿ゟ被仰聞候ハ、内裏町ニうり馬三十疋ほと参候由、申来候間、御馬せめ衆遣し可申候、左
馬乗ヲ遣ス    |  候而、飼料をも渡可申通、被仰聞候間、得其意申通、御返事申候事、

         |                        
         |   十八日  加来二郎兵衛
         |
上方ヨリ刀ノ目利 |一、加々山主馬殿被預置候わきさし、上方ゟ目きゝ参候間、見せ可申候条、弐つ友ニ返し可申ノ由、
来ル 加々山可政 |  状給候間、使堀羽右衛門ニ、慥ニわきさし弐つ渡申候也、
脇差ヲ返ス    |
忠利田川へ赴ク  |一、今日ハ、田川へ被成御座候也、
鷹ノ寄切奉行   |一、御鷹ノよりきり奉行、歩之御小性塩津勘兵衛・森左平次申付候也、

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(九)平太夫改宗・(十)石垣原の戦い

2021-03-14 06:52:38 | 小川研次氏論考

九、平太夫改宗

セスペデスの帰国後の興味深い報告があるが、長崎にいたルイス・フロイスがセスペデスの記録を基に書いたものである。(一五九六年十二月十三日付、長崎発信)

『一五九六年イエズス会日本年報』に「ある司祭が一人の修道士とともに朝鮮に行っていた時、たまたまキリシタンたちを訪れたことがあるが、その際に彼は宇佐宮という領国で主要な神社の祭司職をしていた時枝という名の豊後の高貴な神官に会った。」そして「長い議論をしたが、ついに道理ある効力に負け、朝鮮で真理と完全さを認めて福音の法を納得した。」とある。
「司祭と修道士」はセスペデス神父と日本人修道士レオ・コファンであり、「時枝」は平太夫鎮継である。官兵衛・長政の機張城を訪ねた時に鎮継と出会ったのである。

イエズス会の記録によると官兵衛と共に朝鮮に渡っていた「時枝」は「神官」の身であって武将である。代々、弥勒寺の寺務を司っている時枝家にとってはキリスト教を簡単に受け入れる事は出来なかった。それゆえに、朝鮮では「議論」に負けたが(イエズス会の言い分)、洗練を受けていないのである。確かに藩主官兵衛はキリシタンであるが、信仰に関しては別であった。
さらにフロイスの筆は進む。

「朝鮮でこの人物に説教した同じ修道士が彼の郷里(宇佐)を通過した時、この(神官)は彼に会えたことを非常に喜び、しきりに幾度も懇願して自分は家族全員でキリシタン宗門を受け入れることを考えているので、しばらくそこに滞在するようにと頼んだ。そこで修道士は滞在し、二、三ヶ月足らずでこの者の妻は、他の二十人の人々と一緒に洗礼を授かりキリストの教会に入った。」

修道士レオ・コファンは宇佐の時枝城に二,三ヶ月滞在し時枝一族に洗礼を施したとある。一五九六年のことである。文禄三年(一五九四)に「其の後海辺の處々の城に在し諸大将皆日本に帰りける。」(黒) とあり、鎮継やセスペデス一行もこの年に日本に戻ったと考えられる。洗礼までの二年間に鎮継の気持ちの変化があったのだろうか。やはり、官兵衛の影響が強いと考えられる。当然、修道士滞在も官兵衛の知るところである。

明国との交渉決裂から慶長二年(一五九七)、秀吉は再び朝鮮半島に日本軍を送り込んだ。慶長の役である。しかし、翌年、秀吉の死によって終止符を打つことになる。

尚、セスペデスは一五九九年に官兵衛の招聘により中津に住むことになる。
「中津において、如水の保護でグレゴリオ・デ・セスペデス神父」(「マトス神父の回想録」『キリシタン研究』第二十四輯)
中津教会で平和の鐘の音色が響き渡っていたのも束の間、慶長五年(一六〇〇)に天下の大事件が起こる。関ヶ原の戦いである。


十、石垣原の戦い

慶長五年(一六〇〇)六月十六日、徳川家康は会津の上杉景勝を討つために大阪を発った。黒田長政や細川忠興らも加わった。
この隙に石田三成は毛利輝元を総大将に擁立して挙兵した。
「石田治部少の乱」である。世に言う関ヶ原の戦いである。

長政の母櫛橋光(くしはしてる)と新妻・栄姫は大阪城下の天満屋敷にいた。これは「秀吉公の時より、天下諸大名の妻子を大阪の面々の屋敷人質に置たり」(黒)とあり、三成は敵方大名の妻子を大阪城に人質にすることにより、優位に戦おうとした。
しかし、長政は「我が母上と妻とを、ひそかに恙なく本国に下すべし。」(黒)
と家臣に言いつけていた。この二人の脱出作戦を敢行したのが母利太兵衛(ぼりたへえ・友信)である。商人の姿に変え、二人を俵に包んであたかも商品に見せかけて、なんとか屋敷から出ることができた。
ところが、舟で逃げることにしていたが、川番所の警備もあり厳しい状況であった。
この時、「鉄砲の音夥しく聞こえ、城近く火事出来たるを、彼番所の者たち共見て、急ぎ小舟に乗りて馳行けれは、番所には人々すくなに見えけるか」(黒)
太兵衛は急いで二人の宿所に行き、「只今船に乗せ申さん」と大きな箱に隠し、船に乗せ川番所を無事に通過できたのである。
七月十七日の夜だった。この「城近く火事」は細川忠興邸である。
石田方の人質要請に忠興正室の玉子(ガラシャ)は「我今敵の手にわたり城中に入て諸人に面をさらしなば、大なる恥辱なるべし。又越中守殿(忠興)、家康公への忠義のさわりとも成ぬべし。」(黒)と自害したのである。家臣の小笠原少斎、河喜多(川北)石見らは、屋敷に火をかけ切腹した。
玉子は長男忠隆の新妻(前田利家の娘)や侍女らを逃したばかりでなく、長政の母と妻までも救ったことにもなる。

中津城で隠居していた如水(官兵衛)は三成の乱が確定すると、「九州にある石田か黨類を悉く誅伐すへし」(黒)と兵を集めることにした。
九月九日の出陣に向けて出来るだけ多くの兵を集めるために「金銀多く取出し渡かれける。」その結果、「九千餘人」も集まった。
陣備は一番に母利太兵衛、二番に黒田兵庫助、三番に栗山四郎右衛門、五番に野村市右衛門、六番に母利與三兵衛・時枝平太夫、七番に久野次左衛門・曾我部五右衛門、そして「黒田安大夫」の名がある。(黒)

九月十日夜、細川忠興の飛地領である豊後木付(杵築)の杵築城が大友義統の攻撃目標となった。城代は松井康之・有吉次郎右衛門である。
五、六千人の軍が城を攻めたのである。
この情報を得た如水は杵築城の援軍を出すことにし、「井上九郎右衛門・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平太夫・母利與三兵衛・曾我部五右衛門・池田久郎兵衛・黒田安大夫等」に三千餘人の兵を連れ向かわせた。(黒)
杵築城は攻められ残すところは本丸だけとなったが、黒田援軍が迫ってきたと聞いた義統軍は早々に引き上げ、本陣の立石に戻った。立石は父宗麟の勝戦の地であった。

九月十三日、如水軍は義統を討つために石垣原(別府市)に向かい、両軍は対峙した。この時の先陣を切ったのは時枝平太夫・母利與三兵衛である。
ところが、敵はジリジリと引いていくのである。実はこれは義統軍の罠であった。「釣り野伏せ」である。
「母利・時枝、敵の偽(いつわり)て逃るをバしらずして」(黒) 敵の本陣へ向かったのである。術中にはまった平太夫らは、三方から敵の猛攻にあう。
「母利與三兵衛・時枝平太夫もしばし支えて戦けるが」(黒) 敵将吉弘統幸(むねゆき)が猛兵に押し立てられ攻めてきたので、引いたが、「身方(味方)に討るゝ者多かりけり。時枝平太夫は人数をあつめ、眞丸に成て引けるが、所々にて踏とまり守返し、敵を防きてぞ引退ける。」(黒) 
この時、味方八十人、敵は十騎討たれたとしている。(黒)

二陣の若武者久野次左衛門と曾我部五右衛門も討たれた。
そこで、如水は三陣の井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤左門を投入し、大友軍を敗る。敵将吉弘統幸(むねゆき)や宗像掃部(かもん)も討ち取られた。
九月十五日、大友義統は妹婿である母利太兵衛を通して降伏した。
しかし、九月十九日付「松井康之・有吉立行連署状案」によると、先陣は久野・曽我部・母利(與)・時枝、二陣に井上・野村・後藤又兵衛息となっており、兵力もそれぞれ千名余りとしている。(『松井文庫所蔵古文書調査報告書三』)

のちの黒崎城主となる井上九郎右衛門(之房・ゆきふさ)は二百二十七、野村市右衛門は百八十八もの首級を討ち取った。平太夫は苦戦しながらも十二だったが、感状なしである。(黒)
また「長岡越中守(忠興)家人にハ、魚住右衛門兵衛・中村次郎右衛門といひし者、松井・有吉に属せしが、二人勇勝れたりとて如水より感書を與へらる。」(黒)
とある。ちなみに次郎右衛門はキリシタンであった。(『肥後切支丹史』)
右衛門兵衛も息子の与右衛門がキリシタンであったことから、おそらくキリシタンであったと考えられる。

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