津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(527)寛永七年・日帳(十月廿六日~廿九日)

2021-03-25 12:36:24 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十月)廿六~廿九日

         |                                       
         |   廿六日  奥村少兵衛 
         |
鷹狩       |一、今朝、御鷹野ニ被成御出候事、
大手門番交替   |一、大手ノ御門番、村田六兵衛替ニ、財津惣左衛門元組塚本理右衛門、
質部屋番人跡替  |一、しちへや御番、伊藤十介替ニ、西沢与児玉又左衛門、
         |        (浅山)
口屋番人跡替   |一、口や御番ニ、修理与白木牛介、但、山本理兵衛かわり也、
         |                山川与
町籠番人跡替   |一、町籠御番、堀江甚右衛門替ニ、〇坂口仁兵衛、
籤取       |  右四人上り人ニ申付、くし取候て、如此相定者也、
         |  (三淵宗由)
三淵宗由障泥四懸 |一、長岡藤十郎殿、江戸ニ而、御あをり四かけ御かり候て御遣候、かわりノあをり四かけ、此度口御
ヲ借出      |  納戸御物同前ニ□つて御下候、江戸にて、御留守居衆へ相渡、証文取下候へと、森作兵衛ニ申渡
         |  候事、
上方ヨリノ物数  |一、風斗五兵衛罷下候ニ、持下候物数ノ事、
         |  一、京衆ゟ文箱一つ、我々へ、
         |                      (松井友好)(皆川)
         |  一、野尻杢ゟ、かつほ一箱被上候、又、状ハ宇右衛門・治アニ当、文箱下ル、
石清水八万松ノ坊 |  一、八幡松ノ坊・宮本坊ゟ進上、かわ・扇子ノ入たるかミ包弐つ、
宮本坊ヨリ音信  |
護符       |  一、御札も、右両坊ゟ被上ル、
伽羅用ノ鋸    |  一、伽羅御ひかせ候のこきり三つ下ル、
芳長老      |  一、芳長老ゟ、 殿様へ之御状一つ、
椿ノ継木     |  一、椿ノつき木も下ル、
         |  一、右之外、京・大坂ゟ之書状共数多下ル也、
         |         (秀成)    せ
生嶋秀成上京随行 |一、右ノ御船頭、生嶋玄番殿の上候ニ、舟中ニて、かこ弐十人幷御長柄衆二人ニ壱歩判壱枚、御船頭
者等ニ賞与    |                              (村松)
         |  ニ銭五百、かち取ニ銭弐百、御鉄砲衆ニ、二人ニ五百三百宛、村長右衛門ニ五百被下候由申候也、
         |                        〃〃

         |                                       
         |   廿七日  奥村少兵衛 
         |
         |                御座、
忠利鷹野ヨリ晩藪 |一、今日は未明ゟ、御鷹野ニ被成 〇晩ハ藪市正所へ、すくニ被為成候事、
正直邸ニ臨ム   |


         |                                       
         |   廿八日  加来二郎兵衛 
         |
         |  (吉兵衛)
田川郡代官松岡某 |一、黒部与西村十兵衛
ニ付ケシ番人   |一、同与高倉久太夫
         |  (重元)
         |一、井門与池尻新介
         |一、同与井口仁右衛門
         |一、同与河内何右衛門
         |  右之分、御代官松岡七左衛門ニ、番ニ付申候事、
         |                          (抱)
船頭新規召抱   |一、御船頭ニ、万代久右衛門と申もの、今日新参ニ被召拘候事、
         | (ママ)
         |一

         |
         |        (ママ)                                       
         |   廿九日  
         |
         |一、井門与大畠作右衛門、中津郡へ遣候処、花熊之村ニ、真鴨ノ女鳥壱つ、たちかね居候由にて、持
         |  来候、御台所へ払候へと、申付候事、
         |   (炮脱)
         |一、御鉄衆大畠作右衛門、中津郡へ御飛脚ニ遣候、然ニ、花熊村にて、生鴨ノ女鳥壱つひろい申由ニ
         |  而、持来候間、御台所之勘十郎ニ渡申候也、
         |           (国遠)
唐人明寰ノ借状  |一、唐人明寰借状壱枚、道倫所へ持せ遣候、但、銅代銀、家作事入目、長崎ニ而御取替被成候銀ヲ、
長崎銅代銀    |  一つニ究たる借状也、
家作入目     |
         |              (規矩郡)
領内ノ鮭ヲ上グ  |一、矢嶋平三郎組加来少右衛門、横川ニ而、鮭壱つとらへ申由ニ而、持参仕候事、
         |一、林二郎兵衛下代、村廻仕候とて、川ノ瀬にて鮭を取候由にて、二郎兵衛所ゟ持せ上げ候、弥五左衛
         |  門上ヶ被申候也、

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■再考小倉藩葡萄酒 (五)藩主と葡萄酒

2021-03-25 06:30:20 | 小川研次氏論考

        五、藩主と葡萄酒

        元和六年(1620)、忠興から家督を譲られた忠利は翌年の元和七年(1621)、小倉
        城に入る。早速、母ガラシャの菩提寺秀林院の建立に着手する。
        さらに奇妙な行動を起こすことになる。
        元和八年(1622)五月五日、長崎の西坂で日本キリシタン迫害史最大の殉教事件
        があった。総数五十五人が火刑と斬首による「元和の大殉教」である。
        また五日後、小倉でセスペデスと働いていた司祭カミロ・コンスタンツィオは
        平戸の田平にて火炙りの刑にあった。
        このような連日迫害の嵐の状況下にあるにもかかわらず、忠利は家臣を平戸へ
        向かわせる。
        元和九年(1623)四月、忠利は宇佐郡の郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を平戸へ
        向かわせ、石などを引く万力の購入を指示する。その技術を平戸にいる忠蔵の
        叔父から極秘に習うこと。そして他に奇特なものがあれば、それも習う事も命
        じていた。(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』)
        「万力」はこの頃、忠利が力を入れようとした鉱山開発に使用するためのもの
        か。また、葡萄圧搾のためか。
        『永青文庫研究』では「忠蔵の叔父」は上田忠左衛門の実弟太郎右衛門とした。
        三年後の寛永三年(1626)、小倉藩に召抱えられ、葡萄酒を造ることになる上田
        太郎右衛門である。平戸で葡萄酒造りなどの南蛮技術を習得していたのか。

        さて、太郎右衛門が葡萄酒造りに着手する以前の日本の葡萄酒事情を見てみよ
        う。
        17世紀初頭、ポルトガルはオランダ・イギリスによるアジアでの海賊行為によ
        る略奪に苦しんでいた。やがて、ゴアからマカオまでの航路が遮断されるに至
        り、資金供給と物流が困難になった。
        「葡萄酒がないためにあの司教区(日本)の司祭たちは主日と聖人の祝日にしか
        ミサを挙行しない旨を朕に述べ、(中略) 葡萄酒とオリーブ油を給付して頂きた
        いと要請してきた。」(「1618年4月3日付リスボン発、ポルトガル国王のイン
        ディア副王宛書簡」『モンスーン文書と日本』高瀬弘一郎)
        「オランダ人は、依然として(ポルトガルの)船を追撃していた。1618年に、マ
        カオに帰った(ポルトガルの)舟は、往復とも彼らを避けていた。同年、ポルト
        ガル人は、大船の代わりに6隻の小船を遣わした。」(『日本切支丹宗門史』)
        ポルトガルがリスクを軽減するために船荷を小船に分散したのである。
        元和三年(1617)、マカオから長崎へ向けての積荷目録がある。荷受人はイエズ
        ス会の財務責任者である司祭カルロ・スピラノである。(『投銀に関する特殊の
        資料』)
        キリスト教に関する物品だけをみると「ミサ用葡萄酒4瓶」「数珠、祈祷書そ
        の他のキリスト教用品1箱」とある。
        本国ポルトガルからインドのゴア経由でマカオまで樽を運ばれていた葡萄酒の
        ストックが少なくなり、マカオで小分けして瓶詰めされたのであろう。
        「ミサ用葡萄酒4瓶」が逼迫した状況を物語っている。
        瓶の容量は不明だが、ビードロ製であろう。「数珠」はロザリオで「コンタツ
        」と呼ばれていた。スピノラは信徒らの資金により危険を冒してまでも輸入し
        たのである。しかし、1618年12月13日に捕縛され、1622年に火刑となった。
        元和の大殉教である。その後任の財務責任者となったのが、クリスヴァン・フ
        ェレイラである。遠藤周作の『沈黙』の転伴天連(ころびばてれん)のモデルで
        ある。1633年、奇しくも長崎の西坂で中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処さ
        れ棄教したが、ジュリアンは「私はローマへ行った中浦神父です」と叫び、殉
        教したのである。(『天正少年使節の中浦ジュリアン』結城了悟)
        フェレイラは財務だけでなく、日本中に散らばっている宣教師らの要求に応え
        なければならなかった。
        特に重要なことは、ミサ用葡萄酒であった。ところが2年後の1620年11月30日
        、長崎で大火があり、イエズス会の倉庫が焼け落ちた。長崎にいた巡察使マテ
        ウス・コーロスは「我々は多くのものを失った。薬、ミサ用葡萄酒、その他沢
        山のものだ。」(『キリシタン人物の研究』フーベルト・チースリク)と嘆いた。
        このような状況下で、1623年に将軍になった徳川家光は訴人報償制度を敷き、
        ポルトガル人やスペイン人の追放し、宣教師らを火炙りにした。また、船荷の
        徹底した検査によりキリシタン教関連用品があれば、船長や士官まで死罪とし
        た。(『日本切支丹宗門史』) ミサ用葡萄酒の調達は絶望的になったのである。
        「朕は、日本司教が望む葡萄酒とオリーブ油の給付に関する1618年4月3日付け
        朕の書簡への返信として、昨年(1619年)2月13日付けの貴下の書簡で朕に書き
        送ってきたことを披見した。その(インディア)領国の副王であったドン・ジェ
        ロニモ・デ・アゼヴェドが(日本)司教に与えた葡萄酒二樽の給付を、毎年、彼
        に与えるように命じること。そして日本に修道士たちが居る限り、彼にそれが
        欠乏することのないようにすること。しかし、彼らが日本に居なくなったら、
        前述の葡萄酒の給付は停止すること。」(「1620年3月28日付リスボン発、ポル
        トガル国王のインディア福岡宛書簡」『モンスーン文書と日本』)
        「葡萄酒の給付停止」はやがて現実化することになる。

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