津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■徳富健次郎著「死の陰に」

2021-03-28 21:35:01 | 書籍・読書

                                                               

 徳富蘆花(健次郎)に此の著があることは承知していたが、今迄読む機会がなかった。
先の史談会の例会で「薩摩街道」を取り上げたときの配布資料に、先の熊本県河川国道事務所長の三太郎峠に係る文章をご紹介したが、引用されていたのがこの「死の陰に」である。
健次郎は妻・養女とその家庭教師の女性の三人を引き連れ大正二年秋から三カ月ほどの長い旅に出かけ、その途中生家である水俣を訪れている。
鹿児島から人吉経由で日奈久に入り一泊、日奈久から海路水俣入りしているが、その後熊本へ至る途中三太郎峠越をしているのだ。
そこで是非読みたいと思い「日本の古本屋」で見つけて購入依頼をしたのだが、史談会例会には間に合わなかった。
大正十一年十月の第五十二版とあるが、外箱はともかく、肝心の本の方はまだしっかりしていた。
彼らが通ったのは薩摩藩の参勤交代路の「薩摩街道」ではなく、「明治国道37号線」というやつで、三太郎は隧道や切通で整備された明治33年に開通した新たな交通路である。
一部は薩摩街道と重複はしているが、自動車も通れるようになり、昭和40年の国道3号線の開通までの熊本と県南の水俣や鹿児島県をつなぐ重要な道であった。
それでも難儀な旅であったらしいが、峠から見える眼下の風景に驚嘆を上げる女性たちに、蘆花健次郎は眼を細めている。
例会では 薩摩街道・豊前街道 | 旧街道地図・高低図 というサイとを遣わさせていただいたが、当日講師をお願いした当会のN氏は、みずから何度も現地を訪れ踏破された人だから、道筋が違うことをたびたび指摘された。
幅が2mにも満たない山道を、薩摩藩の参勤や帰国などが何度も繰り返されたことだし、熊本藩の佐敷詰めの藩士たちが薩摩に対する最前線の基地として行き来したのである。
今は南九州西回りの高速道が八代から芦北までつなげられ、3号線を利用していた我々の現役時代からしても、格段の時間的短縮がなされている。三太郎峠のお腹の中を走り抜けている。

せっかくだから、そのうちに蘆花のこの紀行文の「三太郎」という項(約8頁)をご紹介しようと思っている。乞うご期待・・・

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■再考小倉藩葡萄酒 (八)キリストの御血

2021-03-28 10:11:23 | 小川研次氏論考

          八、キリストの御血

         「ミサ用のワインはぶどうジュースから造られた天然の生産物でなければなら
         ず、純粋で腐敗していない、添加物のないものである。」(教皇庁典礼秘跡省)
         「腐敗していない」は酸敗していないことである。
         「キリストの御血」は純粋で変化をしない葡萄酒でなければならず、唯一認め
         られたのが、保存のためにヨーロッパ産の葡萄酒を混ぜることだった。
         寛永5年(1628)8月28日付けの『奉書』よれば、忠利は家臣となった上田太郎
         右衛門に葡萄酒造りを命じている。また、前年から製造していたことも判明し
         ている。9月15日に仲津郡(京都郡みやこ町)へ、ぶどうの収穫に行き、16日に
         は葡萄酒造りの「道具」を同郡の「製造所」に運び込んでいる。(『永青文庫研
         究』創刊号)
         原料は在来種「がらみ」(蘡薁・エビヅル)を使用するが、『和漢三才図会』
         (1712年成立)に俗名「吾由美」(あごみ)とあり、「吾→我 由→良」となり「我
         良美」(がらみ)となったのではないかと自己解釈している。
         仕込みに関しては、同年9月16日の「道具」だが、発酵桶、櫂、樽など、また
         平戸で求めた「万力」も含んでいるのだろうか。
         その後の同年10月の『日帳』が欠落しているが、翌年の寛永六年(1629)9月18
         日に記述がある。
         「ふたう酒作こミ樽弍つ、」と「黒大つ」(黒大豆)が用意されている。
         葡萄酒を造りこむ樽という意味だが、樽発酵なのか。
         10月1日には仕上がった葡萄酒を「ふたう酒弍樽仕上され候、」とあり、およ
         そ二週間で完成している。そして、その日の夜に小倉城へ運んでいる。
         小倉藩葡萄酒製造を推測してみよう。
         まず、収穫した(天日干しの?)「がらみ」を房ごと(全房)、小さめの四角い発酵
         桶に入れ、数人で足で潰し、さらに「万力」で吊り上げた石を板の上に置き、
         圧搾する。板を外し、蓋はしない。数日間発酵させ、色づいた汁だけを抜き取
         る。(血抜き、セニエ) そして、樽で完全発酵させる。正真正銘のワインである。
         さて、「黒大つ」(黒大豆)の使用内容が不明だが、煮詰めた少量の液体を色付
         けのためか。ベトナムのダラットワインに桑の実を使用するのと同じ手法であ
         る。ガラシャと縁のある丹波国の名物黒大豆だったらロマンを感じる。
         しかし、この葡萄酒はアルコール度数が低いため酸敗しやすく、腐敗するため
         、アルコール度数の高い輸入葡萄酒を混入した。
         「長崎買物ニ参候ものニ平蔵相談して申、葡萄酒を調候へと、あまきが能存候
         事」
         元和九年(1623)4月9日付けの忠利の書状に「あまき葡萄酒」をキリシタン棄教
         者の豪商末次平蔵政直に求めていたのである。(『藩貿易史の研究』武野要子)
         前述の高アルコールのスペイン・ポルトガル産の甘い葡萄酒である。この時の
         買物奉行は「飯胴上右衛門」と考えられ、寛永十三年(1636)に転宗するキリシ
         タンである。(「勧談跡覧」『肥後切支丹史』)
         忠利が葡萄酒を求めた記録には、この年から寛永二年(1625)に平戸、寛永八・
         九年(1631・1632)と寛永十四年(1637)に長崎からとある。(『藩貿易史の研究
         』)

         長崎で調達した輸入葡萄酒は、現在ミサで使用されている酒精強化ワインだっ
         たのだろうか。
         「17世紀から熟成途中の異なる段階で少量のブランデー添加が行われていた
         。」(『ポートワイン その歴史とワイン造り』)とあるが、今後の研究課題と
         し、ここでは先述のフォンディリョンのようなスティルワインとしておこう。
         「焼酎ではなく西洋から宣教師が持ち込んたワイン(無濾過、非熱処理)に収穫
         ・破砕した葡萄を投げ込んでいたら・・・瓶内では不活性化で休眠中の酵母は
         新鮮な葡萄の当分と窒素源で充分に発酵できる可能性がある。シャルドネなど
         でシュール・リー(滓の上)として、樽などの容器で沈んだら酵母の生菌性をみ
         ると驚くことにかなりの割合の酵母が生きている事を確認している。瓶に沈ん
         だらワインの滓の中に存在する生きた酵母を種とすることを経験的に知ってい
         た宣教師がいたら、全く別の展開になる。そうすると、日本で始まったワイン
         の酵母種は海外のテロワールに起因することになる。」(川邊久之・醸造家)

 

 

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■細川小倉藩(530)寛永七年・日帳(十ニ月七日~八日)

2021-03-28 07:00:06 | オークション

    日帳(寛永七年十二月)七日~八日

         |                                       
         |   七日  岩男嘉入軒 
         |
         |一、修理・兵庫当番也、
         |                (伊勢桑名郡)
忠利ノ袖判紙家老 |一、御船頭乃み十左衛門夜前罷下候、桑名之渡御供仕、罷上候由申候、其便ニ御袖判弐拾枚、御年寄
判形ナキ故京都ヨ |  衆御判形無之由候て、小野九右衛門・佐藤少左衛門方ゟ差下候事、
リ返サル     |
忠利出府中江戸ヨ |一、江戸ゟ御飛脚弐人罷下候内、財津惣左衛門与宮崎忠左衛門・友田二郎兵衛与住江茂兵衛也、右之
リノ飛脚ニ御油ニ |               (御油、宝飯郡)      (楊枝)      小堀遠江殿へ  
テ行逢ウ 小堀政 |  者共、霜月廿三日ニ、三河国五位にて懸 御目候、此便二、やうし木三百本箱二入、〇進上可申
一へ楊枝木ヲ贈ラ |  旨、江戸へも、やうし木百本可差上旨候事、
シム       |
         |一、浅山修理与山本次郎左衛門、桑名之渡舟ニ着居申候、夜前六日之夜罷下候事、
諸方ヨリノ音信  |一、寺嶋主水ゟ、状壱通参候事、
         |   (慰英)  (是次)
 大坂調物米奉行 |一、仁保太兵衛・米田左兵衛ゟ、状壱通参候事、
 京都調物奉行  |一、佐藤少左衛門尉・小野九右衛門尉・志水安右衛門ゟ、状壱通参候事、
         | (松野親英)(町)
 江戸留守居   |一、織ア・三右衛門ゟ、状壱通参候事、
火縄竹矢篠竹ノ請 |    請取申火縄竹幷矢篠竹之事、
取        |
 上ノ苦竹    |  一、千九百五拾六本ハ  上ノにか竹
 手峰足軽四五一 |      御鉄炮衆四百五拾壱人分 火縄壱わけニ付、竹弐本宛ニして、
 人分
 矢篠竹     |  一、百七拾五本は  矢篠竹
 弓足軽三五人分 |      御弓衆三拾五人分 壱人ニ付、五本宛ニ〆、
         |
佳例年賀ノ献上品 |  右は、毎年為御年頭、火縄幷矢篠上申ニ付、右ノ竹、慥請取申所如件、
小頭等請取    |    寛永七 十二月六日         上野興左衛門
武具奉行宛    |       安場仁左衛門殿        安東八左衛門
         |       林隠岐殿           村上吉左衛門
         |       (崎)
規矩郡奉行宛   |     小嶋與次兵衛殿          野村太兵衛
         |     神足三郎左衛門殿         荒瀬角兵衛                          
日下ノ印判    |  右之通、松之丸衆裏判なしニ、日ノ下ノ印判仕候、
         |                           (蜂須賀忠英)         
遠坂関内粟へ使ス |一、遠坂関内、阿波へ大坂ゟ御使ニ被遣、昨六日ニ被罷下候、阿波様にての拝領物之事、
蜂須賀忠英等ノ賜 |  一、阿波様ゟ、御中わき指一腰 但、御切帋そい申候由候、作ハ盛光
与品 切紙、盛光 |    (同家政)  
         |  一、蓬庵様ゟ、御小袖弐つ、
         |  一、御前様ゟ、御小袖弐つ、
         |  一、長谷川伊豆所ゟ、壱荷壱種給候由候事、

         |                                       
         |   八日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、当番兵庫・助進
奥方女房衆ヨリ京 |一、林隠岐ゟ、おく方御女房衆ゟ京都へ御祝之樽肴日差上度由候間、便儀次第上せ候様にと、内々被
ヘノ祝儀樽有   |  申聞候間、今日惣銀之御奉行をに、御家老衆ゟ、大竹興三左衛門・渡辺藤五郎被差上候間、此便
惣銀奉行  町舟 |              〃
         |  二被遣候へと、隠岐所へ申遣候ヘハ、はや町舟ニ便宜候而、日差上せ候由候事、
         |一、口御納戸御手伝善右衛門尉・惣右衛門尉・助右衛門尉、今日ゟ御用無之候間、差帰申候間由、御
         |  納戸衆伊藤太左衛門申候事、
忠利袖判二十枚  |一、御袖判弐十枚、御家老衆■御判形調、大竹興三左衛門・渡辺藤五郎惣銀被持上付、両人相渡し、
家老ノ判形調へ京 |  佐藤少左衛門・小野九右衛門方へ差上候事
都調物奉行へ渡サ |
シム       |                           (小崎)  (三郎左衛門)
片山示庵加増分ノ |一、片山示庵ニ被遣候御加増分、被引渡候様にと、御郡奉行與次兵衛・神足所へ之状遣候事、
引渡シヲ規矩郡奉 |
行へ命ズ     |
袖判二十枚ノ請書 |一、御袖判弐拾枚ノ内之由にて、箱壱つ、京都へ被成御上せ候、佐藤少左衛門・小野九右衛門・志水
         |        〃〃
         |  安右衛門方へ相渡可申候、以上
         |                             大竹與三右衛門(花押)
         |                             渡辺藤五郎(花押)

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