徳富蘆花(健次郎)に此の著があることは承知していたが、今迄読む機会がなかった。
先の史談会の例会で「薩摩街道」を取り上げたときの配布資料に、先の熊本県河川国道事務所長の三太郎峠に係る文章をご紹介したが、引用されていたのがこの「死の陰に」である。
健次郎は妻・養女とその家庭教師の女性の三人を引き連れ大正二年秋から三カ月ほどの長い旅に出かけ、その途中生家である水俣を訪れている。
鹿児島から人吉経由で日奈久に入り一泊、日奈久から海路水俣入りしているが、その後熊本へ至る途中三太郎峠越をしているのだ。
そこで是非読みたいと思い「日本の古本屋」で見つけて購入依頼をしたのだが、史談会例会には間に合わなかった。
大正十一年十月の第五十二版とあるが、外箱はともかく、肝心の本の方はまだしっかりしていた。
彼らが通ったのは薩摩藩の参勤交代路の「薩摩街道」ではなく、「明治国道37号線」というやつで、三太郎は隧道や切通で整備された明治33年に開通した新たな交通路である。
一部は薩摩街道と重複はしているが、自動車も通れるようになり、昭和40年の国道3号線の開通までの熊本と県南の水俣や鹿児島県をつなぐ重要な道であった。
それでも難儀な旅であったらしいが、峠から見える眼下の風景に驚嘆を上げる女性たちに、蘆花健次郎は眼を細めている。
例会では 薩摩街道・豊前街道 | 旧街道地図・高低図 というサイとを遣わさせていただいたが、当日講師をお願いした当会のN氏は、みずから何度も現地を訪れ踏破された人だから、道筋が違うことをたびたび指摘された。
幅が2mにも満たない山道を、薩摩藩の参勤や帰国などが何度も繰り返されたことだし、熊本藩の佐敷詰めの藩士たちが薩摩に対する最前線の基地として行き来したのである。
今は南九州西回りの高速道が八代から芦北までつなげられ、3号線を利用していた我々の現役時代からしても、格段の時間的短縮がなされている。三太郎峠のお腹の中を走り抜けている。
せっかくだから、そのうちに蘆花のこの紀行文の「三太郎」という項(約8頁)をご紹介しようと思っている。乞うご期待・・・