熊本の桜の開花は18日、満開は27日ころだという予想が出ています。
今日は昼から散歩がてら自衛隊前の桜を観察して回りましたが、早い物でもこんな具合です。
もっとも、一本だけ樹種が違うのでしょう、もう葉桜になっているものもあります。
上ばかり見て歩いていたら、足元に白いものがみえよく見ると、ひこばえに花を付けていました。
熊本の桜の開花は18日、満開は27日ころだという予想が出ています。
今日は昼から散歩がてら自衛隊前の桜を観察して回りましたが、早い物でもこんな具合です。
もっとも、一本だけ樹種が違うのでしょう、もう葉桜になっているものもあります。
上ばかり見て歩いていたら、足元に白いものがみえよく見ると、ひこばえに花を付けていました。
日帳(寛永七年九月)十一日~十三日
|
| 十一日 奥村少兵衛
|
料理用葛ノ花採集 |一、国東御郡奉行小林半左衛門尉被申候ハ、御料理ノ御用ニ成申くすのはなノ儀、御郡中へ申付候へ
不能ノ理由 | (次左衛門)
| 共、時分過候而、はな取出し不申候、八月十日ニ、此地ニ蒲田居被申候ニ被仰付候故、右之通之
| 由、被申候也、
|(豊後海部郡)(佐伯、同郡) (勝永)
稲葉一通毛利高成 |一、臼杵・さいきニ被遣御飛脚、御返書持帰候、寺尾左介与永松二右衛門・山川惣右衛門与麻生半左
ヨリ返書 | (皆川)
飛脚ニ銀子賞与 | 衛門両人ニ、さいきニ而、銀子十匁宛被下候由申候事、御返書ハ治アを以上ル、
|
| 十二日 加来二郎兵衛
|
草鹿ヲ射サシム |一、今日ハ、松ノ丸下にて、御草鹿被成 御射させ候事、
|
三斎返書 |一、三斎様へ為御使、歩之御小性荒木権左衛門被遣、■関ノノ地蔵ゟ一里此方にて懸 御目、御返書
| 持来候事、
|一、右権左衛門乗下候御船頭ハ、野間惣兵衛、
|(一脱)
腰物奉行へ大坂ヨ | 伊藤武左衛門・田中理左衛門所へ、大坂ゟ差下候御つか巻かわ八枚ノ由ニ而、一箱下ル、
リ柄巻革来ル |
| (是次)
小倉包ノ悪銀京ヨ |一、小倉包、悪銀之由にて、弐百目壱包、京ゟ下ル、辻二郎右衛門包也、米田左兵衛・仁保太兵衛ゟ、
リ返送サル | 粟野・加藤・豊岡弐下ル銀也、則、御船頭野間惣兵衛可渡とて、持かへる也、
|賄奉行・料理人遣候ハヽ、御六ケ敷可有御座候間、遣シ申間敷旨 御諚にて、遣シ不申候也、
休閑上京ニ賄奉行 |一、明日、休閑様被成御上候、御料理人ハ八蔵と申もの也、御賄人ハ御鉄炮衆二人、上奉行ニ歩之御
料理人ヲ付ケズ | 小性赤尾茂兵衛申付候也、右分ニ申付候由、申上候ヘハ、賄人奉行・料理人上せ申間敷候、御心
賄料渡切リ | 易被思召候様ニとノ儀候、御賄を渡切可申旨、被 仰出候也、
|一、明日、休閑様乗上り御船頭ハ、三木清大夫、ろ数廿四丁、八端帆也、
|
|一、木下右衛門様ゟ御飛札参候、則、御返書出申候、歩野御小性中嶋五大夫ニ持せ、吉田縫殿所迄持
| せ遣候也、
|
| (ママ)
| 十三日
| (村上景則)
三斎書状ヲ鷹野ノ |一、三斎様寄り殿様へ被進せ御文箱、明日御小早にてくだり申由にて、長岡■■河内所ゟ持せ、被差
忠利へ上グ | 越候を、歩之御小性久持作丞ニ而、御鷹野ニ被成御座候處へ上ヶ申候也、
| (毛利高成)旧姓森氏 (沢村吉重)
毛利高成書状ヲ沢 |一、森摂津守ゟ、御飛脚ニ御文箱参候を、大学所へ御成にて御座候ニ付而、松崎弥兵衛ニ持せ、差上
村吉重邸ニテ上グ | 申候也、
規矩郡奉行平井某 |一、平井五郎兵衛、今朝相果候通、小崎與次兵衛被申候也、
没ス |
| (大里、規矩郡)
大里ノ馬市ニ大豆 |一、内裏ノ市にて、方々ゟ参候馬ニ大つ渡候、奉行ニハ歩ノ御小性浅見八兵衛・兵庫与高見吉右衛門
ヲ渡ス | 也、是ハ御長柄衆壱人付遣也、
鹿肢ヲ佐藤将監ニ |一、鹿肢壱つ、佐藤将監方へ被遣、真野兵右衛門と申者、うけ取ニ参候、渡遣候也、
賜ウ |
三斎ヨリノ進物大 |一、石松作内、大坂ゟ罷下候、 三斎様ゟ、さけ・わさび・ひしほ被進候を、つミ下候由申候申候也、
| 〃〃
坂ヨリ下ル
先に読んだ「中院通勝の研究」に面白い話があった。
(読後にUPした記事が、一部以前書いたものとの重複が有ったので削除した)
中院通勝は天皇の勅勘(天皇による御咎め)により、天正八年に配流となった。配流先は丹後の舞鶴である。
通勝にとって幸いしたことは、この地の領主が尊敬してやまない細川藤孝(幽齋)であったことだ。
弱冠25歳であった通勝に、藤孝は養女(一色義次女)を娶わせている。その嫡男は藤孝が預かり育てた。
長岡与九郎孝以である。初・中院益丸 享年二十一歳 室は細川忠興妹千。男子があり、丸山左京進一信(孝方)、孫の代に至り嵯峨氏を名乗り、細川家に仕え明治に至った。
中院家を継いだのは二男の通村である。
天正16年(1588)に生まれているが、父通勝の配流は19年に及んだが、免勘になる慶長四年(1599)まで、配流先の丹後で育った。
京都の地に帰ったのは、通勝44歳、通村12歳である。面白い話というのは、通村の話し言葉が「丹後弁」であったということだ。
京言葉が話せぬ通村は、公家衆の間で評判を呼んだことであろう。
その丹後弁が小倉・熊本にももたらされ、熊本弁の素地になっているのではないかと思うのだが如何だろうか。
又、三斎の死後松井家が入った八代の地は、熊本市とは明らかに異なる八代弁が存在する。
これとても松井氏の本貫地丹後峰山あたりの言葉が入っているのではないかと思ったりする。
他国から入った侍たちのそれぞれの出自から、熊本の地はまさに異なる言葉がるつぼの中で沸騰していたことであろう。
それも収れんされて肥後弁となり、江戸弁にこだわる薩摩藩とは異なり、細川家の江戸屋敷、そしてのちの侯爵家においては、熊本弁が通常に使われていたと細川護貞様の御著にあった。