九、 真田信之
寛永十五年(1638)、信濃松代藩主真田信之の葡萄酒要請に対して忠利の返書で
ある。(6日25日付)
「信之殿は葡萄酒好きなので、長崎にも問い合わせてみましたが、葡萄酒はキ
リシタンを勧める時に要する酒であるというので、それを心配して、周囲には
一切売買がないとのことです。現在一艘の船が来ておりますが、まだ荷物の口
開けをしていないので、葡萄酒はありません。二十年ばかり前に輸入したとい
う葡萄酒を去年もらって私が飲んだ残りを壺に入れ江戸に置いていたと思いま
すので、少ないかも知れませんが、壺のまま差し上げます。壺の見かけは悪い
ですが…」(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
「葡萄酒好き」の真田信之の「嗜好品」とみえるが、当時の松代藩の状況を考
察してみよう。
承応・明暦・万治(1652~61)に編集された『契利斯督記』(きりすとき)の「信濃
国」の段に「真田伊豆守領分、松代ヨリ宗門中比二出申候、内侍二三人モ出申
候」と「上野国」に「真田伊賀守領分、沼田ヨリ宗門多出申候、東庵ト申スイ
ルマン同前ノ宗門御座候」(『続々群書類従』)とある。
『契利斯督記』は転伴天連ジュゼッペ・キアラの調書を元に初代宗門改役井上
政重(1585~1661)が記録したものであるが、その後も引き継ぎ編集されている。
キアラは日本名「岡本三右衛門」を名乗るが、遠藤周作『沈黙』の主人公のモ
デルである。
真田家領地である松代と沼田にキリシタンが多数いたと記されている。
信之の家臣にもいたということは、忠利の同じ様相である。
さて、真田家本拠地上州沼田に関するイエズス会の記録「1606,1607年日本の
諸事」を見てみよう。
「もう一人の司祭は一人の修道士とともに江戸の市(まち)から北方三日路のと
ころの司祭も修道士も一度も赴いたことのない上野の国にいる若干のキリシタ
ンを訪問し慰めに行った。(中略) 同国に於ける中心的人物であり(本多)上野殿
の舅であり、またかのキリシタンたちの要人であるその地の領主は、司祭を手
厚く遇した。そして、他の好意に加えて、彼を自邸に食事に招き、その機会に
我らの聖なる教えの本質と、その基となっている眼目を聴聞することを望んだ
。(中略) 彼(領主)および居合わせたその家臣たちの多くは説教されたことにい
たく満足し、(中略) それは、彼らにとっては初めてで、遙か彼方から夢のよう
にしか聞いたことのないことだったので、彼らは満足した上に、そのような教
義に感服し、もっとゆっくりとそれを聞くことを望み、教えている真実を少し
ずつ理解するから、年に一度そこに来てくれと司祭に頼んだ。(中略) それらの
キリシタンを慰安すると、かの司祭は信濃の国を経てその旅を続けた。」(『十
六・七世紀イエズス会日本報告集』)
「領主」は真田信之であり、妻は本多忠勝の娘の小松姫である。
信之はキリシタンに対して寛容であった。その結果、沼田では家臣や民衆にも
キリスト教が広がった。しかし、元和二年(1616)、信之は父昌幸の旧領地上田
に移り、元和八年(1622)には松代藩へ移封する。
寛永十五年(1638)2月28日に終結した島原の変後の5月、幕府はキリシタン取締
の徹底化を図る。
同年9月、訴人よる報償金も伴天連(司祭)は二百枚と元和八年(1622)の時よりも
二倍になった。
この年の6月に忠利は信之へ先述の書状を送っている。
また、「幕府は、真田信之に対し、寛永十五年(1638)に領内や真田家中でのキ
リシタン改めを厳しく実施するように命じた。これを受けて信之は松代の重臣
に向けて、九月二十日付で書状を送り、松代領にキリシタン改めを五人組の責
任で厳重に行うように指示し、また真田家中の改めも実施させ、摘発次第、本
人はもちろん従類まで成敗すると厳命している。」(『真田信之 父の智略に勝
った決断率』平山優)とある。
この「五人組」の原因は「大奥」にあったという。
この年(1638)、「皇帝の御殿(将軍の大奥)の中さへ、キリシタンが発見された
。これが実に、厳重な禁令の動機となった。家族の者が、五人づつ、連座の中
に組合されていた。五人の中の一人がキリシタンである場合には、四人の他の
者は、彼と共に死なねばならぬのであった。」(『日本切支丹宗門史』)
『契利斯督記』の松代藩のキリシタン発覚はこの時と思われる。沼田の件はか
なり前の1610年代であろう。
さて、信之は忠利から定期的に葡萄酒を嗜好品として受けていたのだろうか。
その貴重な葡萄酒は忠利と同じく家臣と分かち合ったキリストの御血であった
のではなかろうか。まさに「最後の晩餐」であった。
翌年の1639年には、訴人報償制度が功を奏したのか、イエズス会の司祭ペドロ
岐部、マルチノ式見、ヨハネ・バプチスタ・ポッロらが捕縛され処刑された。
しかし、日本人司祭のマンショ小西は潜伏していた。マンショはキリシタン大
名小西行長の孫である。正保元年(1644)に処刑されるまで、活動していたので
ある。 (『キリシタン時代の日本人司祭』H.チースリク)
私は1639年に仙台で捕縛された三人の司祭の一人が信濃国に入ったとし、マン
ショは祖父の旧領地であった熊本(宇土、細川藩領)、天草を中心に潜伏活動し
ていたと推考している。