津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日の散歩

2021-03-29 15:07:06 | 徒然

 今日の散歩はバスと電車を乗り継いでとなった。
土曜日の史談会で、プロジェクターを借用した際、PCとつなぐコードを我が家に持ち帰っていた。
そこで今朝は慌てて熊本市民会館に返却の為に出かけた。平身低頭でお詫びしたのち、その足で市電に乗り込み、熊本駅まで・・・
駅前広場が完成したというから、見ておこうというわけである。
私は「わさもん」と言う方ではないからこういう行動は珍しいのだが、ひょっとすると今日にもくたばるかもしれないと思うと「見といてやろう」と思ったりするわけである。
博多や大分、鹿児島などとはいささか趣を異にする「熊本駅白川口」が完成をみた。熊本の玄関口にふさわしい好感の持てる雰囲気となった。
しばらく構内を歩き回り写真撮影する。それから徒歩で北岡神社を一回りし、一駄橋から小沢町(竹の馬場)を散策、古いお寺を見て回る。
横手の友人T氏宅により小一時間話し込んでおいとました。
少々長時間の朝散歩ゆえに、奥方がTELしてくる有様である。どうやら元気に帰宅と相成った。

   右手に今降りた路面電車 左手熊本駅前広場

 右手開業前のJRビル、右手熊本駅白川口前広場

 広場越しに安藤忠雄氏設計の駅舎

 熊本城武者返しをイメージした駅舎外装

 白川口広場の東橋、駅前ビルとつなぐブリッジのエスカレーター

 

     北岡神社正面                        脇参道の桜

 一駄橋

 昔の風情を残す小沢町 正面が一駄橋

 竹の馬場と称した通りの名残

 街角の地蔵さんと案内板、小沢町が熊本の煙草の発祥地であったことが記されている。

 小沢橋から坪井川上流を望む

 左右に走る道が妙解寺(左手)の御成道 右手角・下馬天神 正面突き当りが安国寺

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■再考小倉藩葡萄酒(九) 真田信之

2021-03-29 08:31:40 | 小川研次氏論考

          九、 真田信之

         寛永十五年(1638)、信濃松代藩主真田信之の葡萄酒要請に対して忠利の返書で
         ある。(6日25日付)
         「信之殿は葡萄酒好きなので、長崎にも問い合わせてみましたが、葡萄酒はキ
         リシタンを勧める時に要する酒であるというので、それを心配して、周囲には
         一切売買がないとのことです。現在一艘の船が来ておりますが、まだ荷物の口
         開けをしていないので、葡萄酒はありません。二十年ばかり前に輸入したとい
         う葡萄酒を去年もらって私が飲んだ残りを壺に入れ江戸に置いていたと思いま
         すので、少ないかも知れませんが、壺のまま差し上げます。壺の見かけは悪い
         ですが…」(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
         「葡萄酒好き」の真田信之の「嗜好品」とみえるが、当時の松代藩の状況を考
         察してみよう。
         承応・明暦・万治(1652~61)に編集された『契利斯督記』(きりすとき)の「信濃
         国」の段に「真田伊豆守領分、松代ヨリ宗門中比二出申候、内侍二三人モ出申
         候」と「上野国」に「真田伊賀守領分、沼田ヨリ宗門多出申候、東庵ト申スイ
         ルマン同前ノ宗門御座候」(『続々群書類従』)とある。
         『契利斯督記』は転伴天連ジュゼッペ・キアラの調書を元に初代宗門改役井上

         政重(1585~1661)が記録したものであるが、その後も引き継ぎ編集されている。
         キアラは日本名「岡本三右衛門」を名乗るが、遠藤周作『沈黙』の主人公のモ
         デルである。
         真田家領地である松代と沼田にキリシタンが多数いたと記されている。
         信之の家臣にもいたということは、忠利の同じ様相である。
         さて、真田家本拠地上州沼田に関するイエズス会の記録「1606,1607年日本の
         諸事」を見てみよう。
         「もう一人の司祭は一人の修道士とともに江戸の市(まち)から北方三日路のと
         ころの司祭も修道士も一度も赴いたことのない上野の国にいる若干のキリシタ
         ンを訪問し慰めに行った。(中略) 同国に於ける中心的人物であり(本多)上野殿
         の舅であり、またかのキリシタンたちの要人であるその地の領主は、司祭を手
         厚く遇した。そして、他の好意に加えて、彼を自邸に食事に招き、その機会に
         我らの聖なる教えの本質と、その基となっている眼目を聴聞することを望んだ
         。(中略) 彼(領主)および居合わせたその家臣たちの多くは説教されたことにい
         たく満足し、(中略) それは、彼らにとっては初めてで、遙か彼方から夢のよう
         にしか聞いたことのないことだったので、彼らは満足した上に、そのような教
         義に感服し、もっとゆっくりとそれを聞くことを望み、教えている真実を少し
         ずつ理解するから、年に一度そこに来てくれと司祭に頼んだ。(中略) それらの
         キリシタンを慰安すると、かの司祭は信濃の国を経てその旅を続けた。」(『十
         六・七世紀イエズス会日本報告集』)
         「領主」は真田信之であり、妻は本多忠勝の娘の小松姫である。
         信之はキリシタンに対して寛容であった。その結果、沼田では家臣や民衆にも
         キリスト教が広がった。しかし、元和二年(1616)、信之は父昌幸の旧領地上田
         に移り、元和八年(1622)には松代藩へ移封する。
         寛永十五年(1638)2月28日に終結した島原の変後の5月、幕府はキリシタン取締
         の徹底化を図る。
         同年9月、訴人よる報償金も伴天連(司祭)は二百枚と元和八年(1622)の時よりも
         二倍になった。
         この年の6月に忠利は信之へ先述の書状を送っている。
         また、「幕府は、真田信之に対し、寛永十五年(1638)に領内や真田家中でのキ
         リシタン改めを厳しく実施するように命じた。これを受けて信之は松代の重臣
         に向けて、九月二十日付で書状を送り、松代領にキリシタン改めを五人組の責
         任で厳重に行うように指示し、また真田家中の改めも実施させ、摘発次第、本
         人はもちろん従類まで成敗すると厳命している。」(『真田信之 父の智略に勝
         った決断率』平山優)とある。

         この「五人組」の原因は「大奥」にあったという。
         この年(1638)、「皇帝の御殿(将軍の大奥)の中さへ、キリシタンが発見された
         。これが実に、厳重な禁令の動機となった。家族の者が、五人づつ、連座の中
         に組合されていた。五人の中の一人がキリシタンである場合には、四人の他の
         者は、彼と共に死なねばならぬのであった。」(『日本切支丹宗門史』)
         『契利斯督記』の松代藩のキリシタン発覚はこの時と思われる。沼田の件はか
         なり前の1610年代であろう。
         さて、信之は忠利から定期的に葡萄酒を嗜好品として受けていたのだろうか。
         その貴重な葡萄酒は忠利と同じく家臣と分かち合ったキリストの御血であった
         のではなかろうか。まさに「最後の晩餐」であった。
         翌年の1639年には、訴人報償制度が功を奏したのか、イエズス会の司祭ペドロ
         岐部、マルチノ式見、ヨハネ・バプチスタ・ポッロらが捕縛され処刑された。
         しかし、日本人司祭のマンショ小西は潜伏していた。マンショはキリシタン大
         名小西行長の孫である。正保元年(1644)に処刑されるまで、活動していたので
         ある。          (『キリシタン時代の日本人司祭』H.チースリク)
         私は1639年に仙台で捕縛された三人の司祭の一人が信濃国に入ったとし、マン
         ショは祖父の旧領地であった熊本(宇土、細川藩領)、天草を中心に潜伏活動し
         ていたと推考している。

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■細川小倉藩(531)寛永七年・日帳(十ニ月九日~十ニ日)

2021-03-29 06:58:13 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)九日~十二日

         |                                       
         |   九日  奥村少兵衛 
         |
         |一、当番助進・修理也
友田新丞家ヲ上グ |一、友田新丞家を上ヶ申度候、請取人被仰付被下候へと、安場二左衛門登城候而、被申候、則、御家
         |  奉行へ御渡候様にと申候事、

         |                                       
         |   十日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番修理・兵庫也、
         |     (小)
         |一、狩野□源五申候ハ、手前之御算用仕廻申候、頓而、京吉田へ可被成御上せやと申候、便宜次第可
親ノ見舞鴈    |  差上由、申渡候、小源五親田川ニ居申候、ちと見廻ニ参度由申候、被参、急可被罷帰由申候、又、
         |   (正直)
         |  河喜多五郎右衛門所へ、御正月御用之物之書付言伝遣候事、

         |                                       
         |   十一日  岩男嘉入軒 
         |
         |一、京当番兵庫・助進
江戸へ蜜柑    |一、上林甚介ゟ、江戸へミかんを可被遣哉と、申越候間、頓而便有之候間、遣可申由、申渡候事、
         |                               (正照)
         |一、吉田縫殿被壮士候ハ、林作左衛門尉儀、罷帰候、此者儀、前かと藪内匠所ニ居申、ぬい預り候者に
狐ノ退ク薬    |  て候か、狐ののき申薬與申候ヘハ、はや本性ニなり申候由、被申候、如前々被 召仕候事ハ如何
         |  可有御座哉と被申候、返事ニ何も談合可申由申候事、
         |     (渡辺)                                          大あいさ三つ、 三つ
鷹師捉飼ウ鴨ヲ上 |一、御鷹師三十郎、京都郡ハ御鷹遣ニ参居申由ニて、鴨四つ持せ、差越候、内壱つハ〇くろかも〇也、
グ        |  捉、御台所へ払候へと、申付候也、
         |         (相次)
規矩郡代官皆済目 |一、当御郡御代官牧五介・岡嶋仁兵衛・清成作介・小田村與三右衛門、今日皆済目録差上申由にて、
録ヲ持参     |  戸上被仕候事、
鉄炮足軽手伝出役 |一、桑原主殿与之御鉄炮衆之内、壱人ハ皆川治ア手伝ニ付居申候、壱人ハ御数寄屋こもあミ申候、此
ノ欠ヲ補填スルニ |  両人権役を、残ルものとして、仕ふさく事迷惑仕候間、上り人ニ被成候か、不然ハ、組へ御返し
迷惑ス      |  被成候而被下候様にと、与中之者共申候由、主殿登城候而、被申候、書物ハ返し申候、惣談可仕
         |  と申、返候事、

         |                                       
         |   十二日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、当番助進・修理、
金山ノ状況報告書 |一、広吉半介、、御金山ゟ罷帰候ニ、山之様子言上之状、幷才兵衛方へ之添状持せ、被指越候、便キ次
         |  第、江戸へ上可申由申候事、
         |                        (甚丞)(新兵衛)(粟野)
細川七左衛門預米 |一、細川七左衛門殿御預り米、五十石被相渡候へと、豊岡・加藤・伝介方へ切手遣候、段々賄
         |  方引越候而不足之由、被申候ニ付、目録見届候て候上、右之分、相渡候事、
         |                      〃〃

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