津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(528)寛永七年・日帳(十ニ月朔日~ニ日)

2021-03-26 08:42:03 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)朔日~三日

         |                                       
         |   朔日  奥村少兵衛 
         |
規矩郡奉行へ長谷 |一、小崎與次兵衛・神足三郎左衛門方へ、長谷部文左衛門被申分書物以下、能々被見届、其上を以、
部文左申分ノ書物 |  文左衛門方へも返答候て可然通、申渡候也、神足同心也、
厩ノ障子張    |一、はり付仕御奉行ニ、御馬屋之障子はり可被申通、申渡候、はり付仕ニ付而、通りかね候儀有之由
         |  申候間、不通儀ハ此方へ申候ハヽ、らち明可申通、申渡候事、
小台所虎ノ間番士 |一、林隠岐被申候ハ、御小台所とらの間ノ御番被仕候衆、御在国之時ゟ、鉄御門通付申候衆理被申候
鉄門通行ノ便   |  ハ、風雨之時、けやき御門之通り申候ヘハ、雨道具置可申所も無御座、又ハ雨風之時ハ、めしを
         |            ( 面 桶 )
         |  も取寄、たへ申候処、めんつうの仕合ニ御座候、御広間通り申儀、めいわくの由、被申候間、治
         |  ア・小村平右衛門・おき惣談仕、鉄御門を通し申由、被申候事、
         |                    (半左衛門)
三斎返書忠利へ  |一、三斎様ゟ、 殿様へ之御返書御文箱参候、貴田返事も有之候事、

         |                                       
         |   二日  河本瀬兵衛 
         |
         |   (田中氏次)(横山重嘉)
         |一、当番兵庫・助進也、
         |     (国東郡)
高田町町人広嶋ノ |一、昨晩、高田町勘左衛門と申者、広嶋之あき人久兵衛と申もの之銀三百六十目取にけ仕由、御郡奉
商人ヨリ銀取逃  |            (松井興長)             (国東郡)
         |  行衆ゟ注進状参候、則、佐渡殿へ三人参り、談合仕り、宇佐町ニ居申候勘左衛門弟ノ左衛門と申
         |                                    下  
宇佐郡奉行国東郡 |  ものをからめ、国東郡奉行衆へ渡、糾明仕り、せんさく被仕候へと、今日辰刻ニ、次飛脚にて、
奉行へ捕縛糾明ヲ |  宗像・近藤所へ
命ズ       |  〇申遣候、幷久兵衛・宿主弥二郎、又勘左衛門妻子をもしめ置れ候へと、申遣候小林半左衛門・
         |  蒲田次左衛門方へ申遣候事、                    〃〃〃
         |                                        (規矩郡)
買ヒシ田ノ年貢米 |一、国遠道倫・小崎與次兵衛・神足三郎左衛門三人登城候而、御中間頭加介与之御中間・篠崎村ニ而
差次ノ切手ノ処置 |  田をかい、御年貢米さし次之切手、加介ハ慥ニ取置申候、さし次奉行之藤十郎ハさし次不申、切
         |  手ハ書申候へ共、其切手ハ加介方ヘハ渡し不申、主居申候所ニ置申候而、脇之御蔵へ参候跡にて、
         |  失申切手ニ候間、加介ニ不渡候由申候、不指次証拠、御蔵奉行溝口理兵衛と申候へ共、皆口上迄
         |  にて候、加介方ニハ藤十郎切手有之候間、切手有之方之申分つよく候と、道倫三人へ申候、此以
         |  後とても、証文ならてハ立申ましき通、申候事、
         |    (河井)
鷹師へ書状    |一、御鷹師権丞所へ、歩之御小性田辺七郎兵衛方申付、状を相添、遣候事、
鷹師捉飼     |一、山本三蔵御鷹遣ニ被参ニ付、益永太兵衛申付、大橋へ遣候事、

         |                                       
         |   三日  岩男嘉入軒 
         |
         | (横山重嘉)(浅山)
         |一、助進・修理当番也、
         |一、皆川治ア・林隠岐ゟ、清半入老へ、便宜次第上せ候へとて、状壱つ・ちいさきかミ包の袋壱つ、
         |  中におくかたゟ状有之由候て、持せ被越候事、                〃
         |
投網打大坂ヨリ下 |一、西田吉内被申候ハ、唐あミ打、大坂ゟ罷下候、左候ヘハ、おく御たい所御肴之儀、黒瀬九郎右衛
着        |                                        (鱧)(魳)
奥台所ノ肴    |  門ニ相尋申候ハ、下々の肴ハ吉介ゟ吉内手前ゟ上肴にて調申候へ共、上々のハ、鮑・はも・か
         |               〃〃〃
         |  ますなとの類参り候之間、吉介吉内手前ゟ上り申候肴にて、遣かへ申事不罷成候間、如此之御肴
         |              〃〃
         |  ハかい申由、九郎右衛門申候間、大嶋喜右衛門申候由、吉介吉内申候間、両人申通可然由、申候
         |             〃〃            〃〃
         |  事、
         |            (是友)     明石
         |一、町市丞・伊藤十丞・米田甚左衛門尉・熊谷権太夫・冨嶋弥兵衛、今日被罷下候事、
         |                   〃〃
         |  (篠崎)
検地奉行     |一、しのさき御門之外、今まて御鉄炮衆居申候跡之やしき、御検地奉行ニ、弓削與次右衛門ニ申付候、
         |  相奉行ニ、荒瀬左太右衛門申付候也、

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■再考小倉藩葡萄酒 (六)御薬酒

2021-03-26 06:59:31 | 小川研次氏論考

         六、御薬酒


        明の李時珍著『本草綱目』(1578年)は慶長十二年(1607)に長崎にいた林羅山の
        手に渡り、徳川家康に献上された。家康が御薬造りの名人となるきっかけとな
        る。
        そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼
        酎にしたものは大毒がある」という。醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュ
        ース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相で
        ある。
        「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
        「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈であ
        る。それが真の葡萄酒だともいふ。」
        完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄が
        ある中国ならでは可能だったのである。
        しかし、日本ではどうだろう。
        そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。
        1549年8月15日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエル
        は日本人の「酒」に関して報告している。
        「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。こ
        の地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」(『聖
        フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)
        また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは1620〜22年に『日本教
        会史』を編集している。
        「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨
        や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、豊後国を除く九州全域は下)における桃
        や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないか
        らであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一
        種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造る
        ならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また
        、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来
        る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡
        萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上
        、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)
        日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から
        染料や籠などを作っていたが、ロドリゲスは「真の野生の葡萄」として葡萄酒
        に言及している。
        では、家康(1619年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
        『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本
        資料』第十二編之二十四)
        慶長十年(1605)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に
        「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りた
        る酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』
        雄松堂書店) とあり、家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったの
        であった。
        さらに慶長十八年(1613)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡
        萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往
        復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
        このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
        当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えら
        れ、ペドロ・ヒメネスの可能性がある。家康は三年間で三壺を消費して二壺を
        遺していたのではなかろうか。
        幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
        徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(1644)まで待たなければならない。
        『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」と
        あり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日
        本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
        将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本の
        どこかで造られていたことになる。
        ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
        もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』のように「薬効」を意識した
        「御薬酒」としたであろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであ
        った。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に
        日本人は日本酒や焼酎を加えることにした。つまり、「醸造酒」ではなく「混
        成酒」なのである。「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性が高い。

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