津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(521)寛永七年・日帳(十月五日~九日)

2021-03-19 08:30:39 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年十月)五日~九日

         |                               
         |   五日  奥村少兵衛  
         |                                (規矩郡)
三斎へ音信占地茸 |一、三斎様へ、しめちたけ壱籠・御文箱被成御添、次飛脚にて被進候を、黒原迄御小人ノ少八ニ持せ
         |  遣也、
         |   (重義)豊後府内二代藩主
竹中重義へ栄螺  |一、竹中采女様へ被進之さゝい悪敷成可申由ニ而、新敷を弐籠相調、御船頭宮崎孫右衛門ニ持せ、式
         |           (長門豊浦郡)
         |  ア殿ゟ御状御添候而、下ノ関へ、関内・長兵衛被居候ニ、被遣候事、
ビロードノ屏風  |一、ひろうとの御屏風ノ御奉行真玉半右衛門、御横目ハ守田少兵衛也、
         |                                          (規矩郡)
三斎ヘノ鯉    |一、三斎様へ、来ル九日ニ被進せ候五つのこいの儀、寸尺金子喜左衛門ゟ書付出候を、則、合馬御惣
         |  庄屋清六ニ相渡、来ル八日ニ持来候へと、かたく申渡候也、
         | ふたへ付也、
竹中重義下ノ関通 |一、竹中采女殿下ノ関御通り候ニ付而、遠坂關内被遣候へ共、采女おそく被通候間、弐珀のさゝへく
行        |  さり可申候間、新敷さゝへを遣、取替可申由、奉り式ア少殿、則、申付、遣候也、
熊皮ノ障泥    |一、熊の皮の御あおり一かけ出来申候を、小林久介持被参候、被懸 御目候へと、申渡候也、
有吉英貴邸へ晩ノ |一、頼母殿へ、晩の御数寄ニ被成 御座候也、
数寄ニ臨ム    |
高罠ノ奉行    |一、高わな奉行ニ、歩之御小性奥村市左衛門申付候也、
         |一、中津ゟ、 三斎様御買物之儀ニ付而、飯銅上右衛門所ヘノ状・我等共之状・佐藤将監所へ之状
         |  参候事、

         |
         |  〇六日・七日分 記載ナシ、
         |
            

         |                               
         |   八日  加来二郎兵衛
         |  
         |                  (沼田延之)
草履取ノ親座頭屋 |一、御さうり取竹蔵と申ものゝ親座頭、かけゆ殿下やしきノわき、山田少兵衛上候内を被下候へと、
敷ヲ乞ウ     |  (吉谷)
         |  平太夫を以申候、せかれ竹蔵御奉公仕居儀候間、遣可被申由、申渡候事、
         |            (規矩郡)
氏家元高邸ニ臨ム |一、今晩ハ氏家志摩殿へ、曽根ゟ直ニ被成御座候也、

         |                               
         |   九日  奥村少兵衛  
         |
彦山政所坊親死ス |一、政所坊親、今朝卯刻ニ御果候由、財津惣兵衛被申候事、
         |   (長晟)
浅野長晟へ音信  |一、浅野但馬様へ御飛脚、御小人ノ市介ニ、御文箱相渡、遣候也、
八喜木工困窮ス  |一、八木木工手前不罷成ニ付、京都御借銀ノ内を被成御借シ、自然/\ニ知行物成之内を以、可取立
京都借銀ノ御印  |  との 御印、寛五ノ十一月ニ被成御出ニ付、今度も弐貫め余かり被申候、上方利足なミと、尺状
上方ノ利子    |                                (豊岡)
         |  ニ書付させ候、上方ノ利ハ弐年ごし、参年こしにならてハ不極由、甚丞被申候、此前ノ利ノなら
         |                      (ま脱)
         |  し、年中一わり弐歩ニ当候ニ付、大かたたゝい迄究置候事、
江戸ヨリノ飛脚下 |一、江戸ゟ、黒部吉右衛門与帆足十左衛門・伊藤佐左衛門尉参候、江戸を九月十日ニ立、大坂ニ同廿二
ル        |  日ニ着、御舟無之付、廿八日ノ夜出船仕由申候、田辺七郎兵衛も同前ニ被罷下候也、
江戸ヨリノ音信  |     右ノ持下候御状数
         |  一、御留守居衆ゟ壱つ、
         |    (本多政朝)
         |  一、本田甲斐様ゟ壱つ、
         |      (忠真)
         |  一、小笠原右近様ゟ一壱つ、
         |  一、御留守居衆ゟ壱つ、
         |  右之前、飯田才兵衛を以上ル、
         |一、江戸へ、明日被遣わ御鉄炮衆、山川惣右衛門与小林市丞・井関久馬助与宗村九兵衛両人也、但、横
         |  山作兵衛同船ニ而上ス、但、御物ニ付遣衆にてハ無之候、直ニ江戸へ遣二人也、
         |一、貴田半左衛門尉所へ」、被遣 御書箱、持せ遣可申旨にて、被成御出候也、
         | (細川光尚)
光尚へ小刀 薬  |一、御六様へ被進せ御小刀、幷御薬入申候小箱壱つ、
         |
         |一、松野織ア・町三右衛門へ被遣大文箱一つ、山川惣右衛門与小林市丞■・井関久馬助与宗村九兵衛
         |  ニ、右弐つの箱相渡、江戸へ被遣候也、
         |一、江戸へ西沢与樋田少兵衛、
         |  〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |     為早便
江戸ヨリ早便   |一、江戸ゟ〇桑原与石原角左衛門・国友半右衛門ヨ岩男権右衛門罷下候、江戸九月廿七日に立、大坂
         |                                 (外)
         |  ニ十月三日ニ着、続二右衛門舟ニ而下ル、言上ノ文箱壱つ持下、其状書状数多持下ル、
京ヨリ太刀    |一、西沢与樋田少兵衛ハ、御太刀取二、京へ被遣、御太刀持下ル、則、上申候、
大坂ヨリ赤貝   |一、大坂より赤かい廿下ル、則、上ル、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十八)終焉の地・参考資料

2021-03-19 07:02:51 | 小川研次氏論考

十八、終焉の地

平太夫が亡くなる一年前の慶長十一年(一六〇六)に黒田藩に事件が起きる。
大隈城(益富城)の後藤又兵衛が突然出奔したのである。

「時枝中興の祖重記は黒田如水の招きにより一族郎党を引具し慶長五年黒田藩に列し同七年三千石領地被下同十一年嘉穂郡益富城主後藤又兵衛出奔後毛利但馬守(母利太兵衛)の居城たりし鞍手郡鷹取城を、その平太夫に賜はる其後長政公の御意に違ひ御勘気を蒙り閉門仰付黒崎に蟄居井上周防守に御預けとなり妻と下女刀持二人下僕三人召連れ候様仰付慶長十二年十月九日閉門のまゝ黒崎に病没現在の所に葬られたり。」(『八幡市舊蹟史』)

「長政公の御意に違ひ御勘気を蒙り」とあるが、具体的にその理由が明らかになる。福田千鶴著『後藤又兵衛』から一部引用させていただく。

「慶長十一年に後藤又兵衛が大隈城を出奔すると、長政はその跡に鷹取城を預けていた母利友信(太兵衛)を移し、鷹取城には時枝鎮継(重起とも)を置き、五千石を加増して一万石を与えようとした。(中略) 筑前入国にも従い、入国後は菅正利組に属して三千石を領した。鎮継はキリシタンであったため、長政は鎮継を鷹取城に移すにあたり棄教を命じたが、鎮継はこれを拒否した。そこで、知行召し上げとなり、黒田家家老の井上之房に預けられ、その知行黒崎に寓居し、数年して同地に没した。」

典拠は先述の貞享元年(一六八四)に完成した「庄野先祖之覚 貞享元年記」である。
時枝氏の麾下にあった宇佐宮社人庄野半大夫正直は平太夫鎮継とともに筑前国へ入った。

「御國ニても半大夫殿ハ平大夫どの家来ニて御座候、平大夫殿御知行五千石ニて候、其節後藤又兵衛殿大熊之城御明、他国之時、鷹取城代毛利但馬どの大隈ニ被遣、其跡ニ平大夫殿五千石之加増壱万石ニて、永満寺鷹取之城御預可被成と長政公被仰渡、其頃何も切支丹之宗門はやり、平大夫殿も切支丹ニて候間、彼宗門ころひ候へと被仰付候へ共、達て御理り被申候、左候ハゝ加勢も候や、此方知行不入ものとの御意ニて御取上、井上道柏ニ御預、黒崎ニ居申、無念ニ被存候か、気之病ニて果被申候、」(『福岡藩庄野家の由緒』)

ここにきて、「時枝平太夫鎮継」はキリシタンであったというルイス・フロイスの報告と整合性を見るのである。
平太夫の知行は三千石(「慶長分限帳」)だが、ここでは五千石と表示している。
さて、当時、長政は先述の通りキリシタンに理解を示していたが、家老級にキリシタンが居ることが許せなかったのか。
実は長政は父如水の葬儀をキリスト教式だけでなく、仏式の葬儀も挙げている。

「然し不思議な振舞いがあったというのは自らキリシタンの名乗りをあげて、その家来たちには改宗を勧めておきながら、同時に彼は仏僧を招いて父のために供養させたことであった。(中略) この確固たる信念の欠如が致命的な結果を生むことになった。彼はいつしかキリシタンに対して冷淡になり、同時に仏教徒を庇護するようになった。」(『キリシタン大名』ミカエル・シュタインシェン)

この仏式による葬儀は「マトス神父の回想録」によると「その後(教会での葬儀)、二十日ばかり後、筑前殿(長政)は父のために異教徒の方式の葬儀を行なった。とういうのは、彼が背教者であり、それを天下(幕府)に対して表したく、一方、彼はかほど主要なら国の領主であって、その葬儀を極めて盛大におこなわなければならなかったからである。」

稀代の英雄如水の葬儀にどれだけ弔問客が来るか、想像できるだろう。それはキリシタンだけでなく、多くは仏教徒である。長政は父の遺言に従い、先ずキリスト教式で葬儀を挙行したのである。「背教者」の顔を見せるのは、禁教令以降である。

さて、鎮継は棄教をしなかった理由により、黒崎城の井上周防守(道柏)に預けられ、鳴水村に蟄居したという。
しかし、この城代話は美談ではあるが、又兵衛出奔からの翌年、鎮継は静かに息を引き取った。失意の中「気之病」で亡くなったとあるが、棄教しなかった信念のある人物の姿ではない。
慶長十二年(一六〇七)三月に亡くなった妻を追いかけるように十月に鎮継は逝った。この年に流行した麻疹の罹患による死も疑う必要がある。(『日本疾病史』)

著者は鎮継は高齢と病を理由に黒崎の地に隠居したと考え、キリシタン故の蟄居は後年に書かれたものとし、禁教令以前の長政のキリシタンへの理解を信じたい。
鎮継の終の住処は先述の「殿屋敷」であり、蟄居とは考えにくい。

イエズス会の「一六〇六、一六〇七年日本の諸事」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に鎮継と思われる人物の記述がある。

「(筑前国の)領主の代官のようなある古いキリシタンを主要な道具となされた。彼は、しばらくの間デウス(神)の諸事にはひどく冷淡であったが、天から病に襲われて、己についてよく認識し、大いに改心し、自分が世話しているそれらのすべての領民に対するキリストの説教者となることによって、過去の悪しき模範の償いをすることに決めた。」

かつて僧官家だった鎮継が、信仰から離れていたが、如水の死により敬虔なるキリシタンに立ち返ったとも思える。
病身になった鎮継は少ない余生を如水との回想記憶とともに静かに信仰の中に生きようとしたのではなかろうか。

二〇〇五年、北九州市芸術振興財団埋蔵文化財調査室により黒崎城跡(田町二丁目)にてメダイ一点が発見された。

「これは黒崎の地にキリスト教が浸透していたことを示す初の資料である。」(『黒崎城跡3』北九州市埋蔵文化財調査報告書第375集)

長さ2.80cm、最大幅2.16cmのメダイの片面にはイエス・キリストの半身像、もう片面には聖母マリアの半身像が鋳だされている。 

鎮継は終焉の地に黒崎を自ら望んだのであろうか。郷里宇佐の土を二度と踏むことのなかった鎮継は妻とともに北九州市の地に静かに眠っている。

「時枝平太夫」の供養塔に手をあわせると寂寥たる思いが胸に溢れてきた。

                         (了)

参考資料

「佐田文書」『熊本県史料、中世篇第二』熊本県、一九六二年
「小山田文書」『大分縣史料』第一部(7)、宇佐八幡宮文書ニ諸家文書、大分県史料刊行会、大分県教育部研究所、一九五三年
「宮成文書」『宇佐神宮史』
「到津文書」『大分縣史料』第一部(24)、一九五三年
『大分県史料』33 第二部補遣五、大分県教委員会編、大分県中世文書研究会、一九八〇年
『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、一九九六年
『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
小野精一『大宇佐郡史論』宇佐郡史談会、一九三一年
『大分郷土史料集成戦記篇』垣本言雄校訂、大分県郷土史料刊行会、一九三六年
『宇佐神宮史史料篇十四』宇佐神宮庁、二〇〇二年
ルイス・フロイス『日本史』松田毅一、川崎桃太訳、中央公論社、一九八九年
ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史1』中央公論新社、二〇〇〇年
吉永正春『九州のキリシタン大名』海鳥社、二〇〇四年
上妻博之編著『肥後切支丹史』エルピス、一九八九年
長野悠『豊前長野氏史話』今井書店、二〇一〇年
貝原益軒『改訂黒田家譜』第一巻、文献出版、一九八三年
貝原益軒『筑前国続風土記』第三巻、一七〇九年
渡辺重春『豊前志』二豊文献刊行会、一九三一年
苅田町ホームページ
『萩藩閥閲録』第一巻、山口県文書館、一九六七年
小和田哲男『黒田如水』ミネルヴァ書房、二〇一二年
朴哲著、谷口智子訳『グレゴリオ・デ・セスペデス』春風社、二〇一三年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第四巻、松田毅一監訳、同朋舎、一九八八年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第五巻、松田毅一監訳、同朋舎、
一九八八年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第一巻、松田毅一監訳、同朋舎、
一九九〇年
キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十四輯、吉川弘文館、一九八四年
『松井文庫所蔵古文書調査報告書三』
上妻博之著、花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルビス、一九八九年
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳、岩波文庫、一九三八年
『キリシタン研究』第二十四輯、キリシタン文化研究会、吉川弘文館、一九八四年
『福岡藩分限帳集成』海鳥社、一九九九年
『黒田三藩分限帳』福岡地方史談話会、一九七八年
加藤一純『筑前国続風土記附録』文献出版、一九七七年
上野例蔵『八幡市舊蹟史』一九三六年
福田千鶴『後藤又兵衛』中央公論社、二〇一六年
『綿考輯録』出水神社発行、汲古書院発売、一九八九年
『RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』
『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
ミカエル・シュタイシェン『キリシタン大名』吉田小五郎訳、乾元社、一九五二年
フーベルト・チースリク『秋月のキリシタン』高祖敏明監修、教文館、2000年
福田千鶴『福岡藩士時枝氏の先祖墓参りー「遠賀紀行」を読む(1)―』九州産業大学国際文化学部紀要 第52号、二〇一二年
福田千鶴『福岡藩士時枝氏の先祖由緒地巡りー「遠賀紀行を読む」―』九州産業大学国際文化学部紀要 第54号、二〇一三年
福田千鶴『福岡藩士庄野家の由緒』九州産業大学国際文化学部紀要 第49号、二〇一一年
『郷土八幡』第4号、八幡郷土史界、二〇一四年
外園豊基『戦国期在地社会の研究』校倉書房、二〇〇三年
山根一史『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
『キリシタン墓地調査報告書』熊本県天草市五和町御領所在の近世墓調査報告書、天草市観光文化部文化課、天草市立天草キリシタン館、二〇一九年
『鳴水・古屋敷遺跡』北九州市埋蔵文化財調査報告書第108集、財団法人北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室、1991年
『黒崎城跡3』北九州市埋蔵文化財調査報告書第375集、財団法人北九州市芸術文化振興財団埋蔵物文化財調査室、2007年
竹中岩夫『黒崎の成り立ち』八幡郷土史会、2004年
『日本国語大辞典』小学館、2001年
富士川遊『日本疾病史』平凡社、1969年
宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編『古地図の中の福岡・博多』海鳥社、2005年
『角川日本地名大辞典』角川書店、1988年

 

 今回をもちまして小川研次氏論考「時枝平太夫」は完了いたしました。
次回からは同じく小川氏の「再考小倉藩葡萄酒」をご紹介します。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする