津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(511)寛永七年・日帳(八月廿七日~廿九日)

2021-03-09 10:28:04 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)廿七日~廿九日

         |                        
         |   廿七日  賀来二郎兵衛
         |
         |   (田川郡)
岩石ノ松茸    |一、岩石ゟ、松茸三本差上候也、
         |                 三木伝丞   (伊藤)
         |一、今晩、江戸へ被遣御飛脚、井門与大塚少大夫、金左衛門与若槻兵右衛門と申者也、
         |                 〃〃〃〃〃
蟹喰ノ新邸ニ長屋 |一、かにはミ新やしき
ニ、長や被成御立候、此御奉行ニ、金子文三郎・宮部権三郎申付候事、
ヲ建ツ      |
江戸ヘノ書状覚  |一、江戸へ被遣御飛脚ニ、 御文箱相渡候覚
         |      (松野親英)(町)
         |   壱箱ハ 織ア・三右衛門へ、
         |         (職直)
         |   壱箱ハ、■榊原左衛門尉様へ、
         |         (正勝)
         |   壱箱ハ、稲葉丹後様へ、
         |  右之分渡、遣候也、
         |  (主水)
         |一、寺嶋方ヘノ状ハ、御船頭石松作内へ渡、上せ候、舟本迄ハ小頭野田角右衛門ニ持せ遣、渡也、
         |                  (村上景則)    (蒲田)
三斎書状忠利宛  |一、三斎様ゟ、越中様へ被進候御文箱ニ、河内・次兵衛・賢斎ゟ、我等共へ之添状、 御前ニ被成御
         |  留候也、               (志水元高)

         |                        
         |   廿八日  賀来二郎兵衛
         |
         |一、続源八、下々ノ御切米・御扶持方御印出申候を、 御印之段ニ入置、新兵衛・伝介・甚丞ニ可相
         |   (ママ)
         |  渡               (正直)
岩石ノ松茸    |一、田川ゟ、岩石ノ松茸之由候て壱籠、河喜多ゟ、持せ被上候也、
         |一、長崎ゟ飛脚参候、
下毛郡内検    |一、下毛へ御内検ニ被遣御鉄炮衆ハ、山川惣右衛門尉与大場徳左衛門、
下関硯之注文   |一、明日下ノ関へ、御硯あつらへニ被参、かちノ御小性井門助丞、
江戸ヨリ飛脚   |一、江戸ゟ、御鉄炮衆両人、為早飛脚参候、友田二郎兵衛与秋戸十介・兵庫与則木御加左衛門尉也、江
ソノ行程     |                         
         |  戸を去ル十八日ノ酉ノ上刻ニ立、大坂へ同廿三日ノ刁ノ刻ニ参着仕ル、同廿四日ノ夘ノ刻ニ出船
         |  仕由申候、小早ノ御船頭ハ川村喜左衛門也、
江戸ヨリノ書状  |  一、江戸御留守居衆ゟ、言上ノ文箱壱つ、
         |     (茂)
         |  一、渡辺山城様ゟ御状壱通、
         |  一、国師様ゟ御状壱通、
         |  一、竺西堂様ゟ御状壱通、
         |     (秀政)
         |  一、津田與庵様ゟ御状壱通、
         |    (雲嶽霊圭)  
         |  一、圭長老様ゟ御状壱通、
         |     (成政)                                    (乗栄)
         |  一、坂崎清左衛門ゟ、我等共へ当り候しふかミ包壱つ、但、清左衛門方ゟ清田七介へ参物也、
         |  右之分持下候、其外、江戸御留守居衆ゟ、我等共へノ状、京・大坂ゟ、方々へ状共持下候也

         |                        
         |   廿九日  奥村少兵衛
         |
         |           (武次)
江戸ヘノ書状   |一、江戸へ之御飛脚、牧丞太夫与友沢十左衛門・谷忠兵衛与津角少兵衛、今日出船仕候、
         |  一、江戸御留守居衆へ之 御書壱つ、
         |    (松井興長)(自徳院、松井康之室)
         |  一、式ア殿ゟしとくゐん殿ヘノ状壱つ、
         |   (松野親英)(町)
         |  一、織ア・三右衛門方へ、我等共ゟ之状一通、
         |          (成政)
         |  一、京都にて、坂崎清左衛門へ之状壱通、
         |  一、同人へ敷ア殿ゟ之状壱通、
         |  一、同人へ我等共ゟ之状壱通、
         |  一、三斎様へ被進之 御書箱壱つ、
         |  是ハ京都にて、坂崎清左衛門ニ渡置、御飛脚へ江戸へ可罷下候、 三斎様御上着被成候は、清左
         |  衛門持参いたし、上可申旨 御意之由、治ア奉にて被申渡候、
藍島へ野牛ヲ連行 |一、あいの嶋へ、野牛をつれさせ、遣候御鉄炮衆、友田二郎兵衛与秋山理左衛門申付、遣候事、
ノ鉄炮足軽    |
忠利鷹狩     |一、今日は未明ゟ、御鷹野ニ被成御出候事、
         |一、岩石ゟ、松茸四本持参候事、
藍島ノ野牛総数廿 |一、あいの嶋ノ野牛、大小弐拾三、前かとゟ居申候、此方ゟ三つ召連参候、合廿六い申由申候也、
六        |
絵師田代善甫江戸 |一、中津之絵書善甫ニ江戸御下屋敷之御座敷之絵、此中被 仰付、仕廻候而、明日罷帰候ニ、御小袖
下邸ノ座敷ノ絵ヲ |  三つ・御銀子拾枚被遣候也、
完成ニ賞与    |
茶壺積下ル    |一、御船頭南次兵衛、御茶壺とも今日積下申候事、
    

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(三)九州上陸

2021-03-09 06:36:04 | 小川研次氏論考

三、九州上陸

「小倉の城は戦闘を交えることなく降伏した。」(日)

「豊前の凶徒等、小倉・宇留津の両城にたて籠る。高橋右近元種か端城なり。毛利右馬頭輝元小倉の城を取巻、孝高指南して是を責られしに、城主罪を謝して降参しける。其後孝高は小倉の城に居給ふ。吉川・小早川も小倉より取つづき、一里ばかり先へ出張て陣を取。」(黒)

島津氏に加担していた香春岳城(福岡県田川郡)城主の高橋元種は小倉城を端城(はじろ)としていた。元種の実父は秋月種実で小倉城主高橋鑑種(あきたね)の養子となっていた。鑑種病死の時、わずか九歳の幼君であった。
毛利軍は小倉城を包囲した。典拠不明だが城代は小幡玄蕃で城内で自刃したとある。(苅田町公式ホームページ) 天正十四年(一五八六)十月四日とみられる。
また、十一月十五日、吉川元春は小倉城で病没している。

官兵衛の戦略は先ず、豊前制圧であった。

「官兵衛殿は、同所から海辺にある敵の城に向かって出発したが、その城には避難してきている村の全住民以外には、千人の戦闘員が内部に立て籠もっていた。城への侵入は困難をきわめ、濠の水は一人の人間の胸のあたりまで達していた。官兵衛殿は(Vo)の聖母の祝日の午後四時に勇猛果敢な攻撃を試みた。その戦闘で味方の兵五百人が殺され、千人以上が負傷したが、官兵衛殿は怯むことなく、武力を持って城内に侵入し、一人残らず三千五百人を超える敵兵を殺戮した。」(日)

「敵二千餘人籠たりしを、千人餘は首を取、残る男女三百七十三人をば生捕にし磔にかけられる。」(黒)

フロイスは「海辺にある敵の城」とし、城名を記していない。
周防灘に面している豊前宇留津城(うるづじょう・福岡県築上郡築上町宇留津)である。この城は塩田城(えんたじょう)という別名を持つ。(椎名町教育委員会、異説あり)
賀来(加来)氏が守る宇留津城の戦いは、壮絶であった。

『萩藩閥閲録』に「宇留津之出丸に嘉久(賀来、加来)入道専慶・同孫兵衛久盛其外數多楯籠候、」とあり、宇留津城主は入道専慶で孫兵衛久盛はその男子である。また、「両豊記」には「加来與次郎、同新右衛門、同孫兵衛」とあるが、専慶が與次郎で、新右衛門は叔父の加来源助景勝、孫兵衛は久盛である。
與次郎は父入道専順が香春城の高橋元種に人質になっていたが、隆景らの降参条件の領土安堵案にもかかわらず、「孝子の道にあらず」と父を見捨てることができず黒田勢に挑んだ。現在でも地元築上町では「宇留津城哀史」として民劇などで語り継がれている。

十一月二十日の秀吉感状に「豊前宇留津城去る七日ニ責め崩し、千余首を刎ねられ、其の外男女残らずはた者(磔)に相かけられ候儀、心地よき次第に候」(黒)とあり、十一月七日に官兵衛と隆景により落城としている。しかし、『日本史』では「聖母の祝日」とあり、「無原罪の聖マリアの祝日」を指しているとみられ、西暦十二月八日である。(一四七七年「クム・プラエエクセセルサ」『RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』)
旧暦では十月二十八日になるが、この日の午後四時に突撃をしたとあり、『黒田家譜』の十日前である。
この差はなんだろう。まず、宇留津城の「濠」は、現地では後年、「塩田沼」(えんたぬま)と呼ばれていた。現地の案内板から一部引用する。

「天正十四年秋、豊臣秀吉の先手の中国勢等二万八千騎が攻め寄せて攻めあぐんでいる折、一匹の白犬が現れ堀の周囲を廻っていたが、やがてある箇所よりすたすたと泳ぎ渡った。これを見逃さなかった黒田軍は、ここぞ浅瀬だとばかり総攻撃にかかり宇留津城は僅か一日して陥落」(椎田町教育委員会)

「白い犬」とは興味深いが、この濠は難所であったことがわかる。

『日本史』と『黒田家譜』の敵方犠牲者の数は若干違いがあるものの、かなりの数という意味では一致している。
しかし、『黒田家譜』には「味方の兵五百人の戦死者と千人以上の負傷者」(日)の記述はない。
つまり、この戦いは敵方の「千人餘の首」(黒)を刎ねるほどの、裏返すと官兵衛はそれほどの苦戦を強いられたのである。このことから、宇留津城は十月二十八日に攻撃し十一月七日に陥落したと考える方が妥当かも知れない。

「吉川・小早川・黒田官兵衛孝高・同甲斐守長政、其外毛利家之諸将攻懸候剋、搦手北ノ門隆景一手之勢を以仕寄を附相攻候處、秀包采配を取て早ク可乗揚之由下知附、家来椋梨越前を初數多堀に乗候所を城中より矢鉄炮を以防戦之、椋梨越前・清水善右衛門・谷川勘八を初十騎計討死仕候、」(『萩藩閥閲録』)

秀吉書状に「其方搦手隆景先手ニ進、城中に乗込」(『萩藩閥閲録』)とあり、隆景軍の猛将小早川秀包(ひでかね)勢が先陣であった。のちの久留米藩主で、大友宗麟の娘を正室とし、ともにキリシタンであった。
また、『日本史』にも記されている。

「その城(宇留津城)の攻撃にあたった最初の人々の中に、既述の小早川殿(隆景)の秘書がいた。(中略) 秘書の死去は小早川殿に深甚の悲嘆をもたらし、大いなる愛情を抱いていただけに彼は、その死を泣いて悲しんだ。」

このことにより先陣は小早川勢であったことがわかる。
秘書は隆景が情愛を持っていた小姓であろう。下関で洗礼を受けた若き小姓の死は隆景の悲しみを誘った。

「城邊の死骸ども皆海へ流し捨て、掃除させて軍兵を入置。諸軍勢は神田へ歸りけり。」(「両豊記」) 「神田」は苅田の松山城で宇留津城攻めの前に陣をひいていた。宇留津城の西に別府村城(築上郡築上町上別府)があり、「天正の頃、黒田家の旗下、時枝平太夫居る。」(『豊前志』)とあり、一時期、鎮継が在城していたと伝わる。

この戦いの勝利により秀吉先遣隊は九州平定への大きな一歩を踏み出すことができたのである。
そして、重要な働きをしたのが、長野三郎左衛門、時枝平太夫鎮継ら豊前国士らであり、翌年、九州平定後の秀吉による論功行賞により明らかになる。
やがて、官兵衛らは、端城の障子岳城(京都郡みやこ町)を落とし、元種の本拠地田川郡の香春城へ向かう。

「官兵衛殿の軍勢は、同所から高橋(元種)の居城に向かったが、彼は豊後(大友氏)の大敵であり、諸悪の根元である秋月殿の息子である。その城中には、六、七千人の戦闘員のほかに、男女、子どもを混えて五万人あまりの者がいた。官兵衛殿は四十日以上を攻撃に費やした。この間、ほとんど毎日彼我の戦闘が繰り返されたが、ついに彼の巧妙な戦術により、また少なからぬ危険を覚悟の上ではあるが、水攻めによって彼らを降伏せしめた。」(日)

十二月一日、元種は降伏し開城した。


宇留津城跡の碑(福岡県築上郡築上町)

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