過日ご紹介した「細川小倉藩・567」の記事に、「辻堅め」という言葉が登場している。
志摩守(氏家元高)の祝言が行われるにあたり、この「辻堅め」を行うかどうかの議論が、筆頭家老松井興長の元に惣奉行が呼ばれて行われた。
「辻堅め」とは、「貴人の外出の際などに、辻々に立って道筋を警戒すること。また、その役。」とされている。
この氏家元高とは美濃三人衆と言われた、氏家卜全の孫にあたる。(織田軍の伊勢攻めの折殿軍を勤め戦死)
大阪の陣において父・元政(行継)は西軍に属したが、高野山に退去、家康の内書を以て赦免され、慶長六年に忠興に召し寄せられて3,000石を給せられた。元和元年に55歳で死去した。娘が細川興秋に嫁いだが、興秋死後飛鳥井中納言に再嫁した。嫡男元高は父・元正の死去後わずか4歳で跡目している。
そして記事のごとく、寛永8年の暮れにこの祝儀が行われた。氏家家の記録によるとお相手は槇嶋昭光(云庵・1,000石)女である。
槇嶋昭光は元足利将軍に仕え、秀吉の命を受け最後の将軍・義昭の葬儀を葬儀を取り仕切った。
大阪の陣では西軍に属し、後出家、細川忠興らの歎願により除名され、細川家に召出され終始忠興(三斎)に仕えた。
そんな由緒ある両家の婚儀故「辻堅め」が論議されたのであろう。
細川家記録はほかにも、家臣である立(楯)岡氏や平野九郎右衛門の祝儀の際には辻堅めが行われたとしている。
二家とも細川家古来の家臣ではない。
記録の頭注によると楯岡氏を光直としているが、この人物は配流された人であるとともに、高齢であることから間違いであろう。子息・孫一郎の事であろうが、尾藤金左衛門女を娶っている。寛永5年の事である。
一方、谷内蔵丞・加々山主馬の祝儀については、辻堅めを行わなかったと記している。
江戸の歴々の祝儀においても辻堅めは行われていないし、将軍秀忠が病の床にあり美々しいこの様な儀礼は抗議に対し憚れることであるとして、取りやめが決定された。
何れも細川家におけるいわゆる「着座」という身分以上の人達(約80家程)の祝儀であるが、権威付けとも思われる儀式がこの時期に消えた。