津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■辻堅め、取りやめ

2021-05-13 16:26:19 | 歴史

 過日ご紹介した「細川小倉藩・567」の記事に、「辻堅め」という言葉が登場している。
志摩守(氏家元高)の祝言が行われるにあたり、この「辻堅め」を行うかどうかの議論が、筆頭家老松井興長の元に惣奉行が呼ばれて行われた。
「辻堅め」とは、「貴人の外出の際などに、辻々に立って道筋を警戒すること。また、その役。」とされている。
この氏家元高とは美濃三人衆と言われた、氏家卜全の孫にあたる。(織田軍の伊勢攻めの折殿軍を勤め戦死)
大阪の陣において父・元政(行継)は西軍に属したが、高野山に退去、家康の内書を以て赦免され、慶長六年に忠興に召し寄せられて3,000石を給せられた。元和元年に55歳で死去した。娘が細川興秋に嫁いだが、興秋死後飛鳥井中納言に再嫁した。嫡男元高は父・元正の死去後わずか4歳で跡目している。
そして記事のごとく、寛永8年の暮れにこの祝儀が行われた。氏家家の記録によるとお相手は槇嶋昭光(云庵・1,000石)女である。
槇嶋昭光は元足利将軍に仕え、秀吉の命を受け最後の将軍・義昭の葬儀を葬儀を取り仕切った。
大阪の陣では西軍に属し、後出家、細川忠興らの歎願により除名され、細川家に召出され終始忠興(三斎)に仕えた。
そんな由緒ある両家の婚儀故「辻堅め」が論議されたのであろう。

細川家記録はほかにも、家臣である立(楯)岡氏や平野九郎右衛門の祝儀の際には辻堅めが行われたとしている。
二家とも細川家古来の家臣ではない。
記録の頭注によると楯岡氏を光直としているが、この人物は配流された人であるとともに、高齢であることから間違いであろう。子息・孫一郎の事であろうが、尾藤金左衛門女を娶っている。寛永5年の事である。

一方、谷内蔵丞・加々山主馬の祝儀については、辻堅めを行わなかったと記している。

江戸の歴々の祝儀においても辻堅めは行われていないし、将軍秀忠が病の床にあり美々しいこの様な儀礼は抗議に対し憚れることであるとして、取りやめが決定された。
何れも細川家におけるいわゆる「着座」という身分以上の人達(約80家程)の祝儀であるが、権威付けとも思われる儀式がこの時期に消えた。

 

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■梅雨入りまじか

2021-05-13 07:22:10 | 徒然

 散歩道の所々に紫陽花の株がみられ、花が大分色づいてきた。そうなると梅雨が近い証拠だ。
一昨日南九州は梅雨入りしたが、熊本も昨日は雨、今日は一休みして、明日から又雨らしく梅雨入りも近そうだ。
例年だと6月上旬だと思うが、20日ほど早くなるのではないか。長い梅雨はうっとうしいものだ。
紫陽花と言えば雨が似合うが、私は傘をさしかけられた芍薬も思い出してしまう。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というが、あまり見る機会がないから、私はどつちがどっちか判らない。

明治9年に来日したフランスの実業家エミール・ギメという人は日本訪問記を残している。
その中では「座れば芍薬、立てば牡丹、歩く姿は蓮の花」とあった。
子供を望む夫婦が上野の弁財天に祈りつづけて、美しい娘が生まれた。長じて娘の廻りには若い男が押し寄せるが、かえって娘は気鬱になっていくという。
不思議に思った夫婦が時折出かける娘の後を追うと、それは白い龍の化身であった。
驚く夫婦の前に白い龍の背に乗った弁財天があらわれ、夫婦の末永い幸せを約束して天に上ったというのだ。

これは、ギメが記録している逸話だが、どちらが立つのか座るのかはべつにしても、芍薬や牡丹といった花は、当時の日本の女性の美を表す最高の言葉であったことは間違いなさそうだ。
牡丹に傘をさしかけるというのは、どういった理由からなのだろうか?

              侍が 傘さしかける牡丹かな   一茶

              あじさゐのどの花となく雫かな  岩井英雅

 一両日の内には、熊本も梅雨入りの可能性がある。

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