日帳(寛永八年十一月)七日~九日
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| 七日 加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
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|一、兵庫・助進当番也
| (瀧)
中津ニテハ狩犬煩 |一、龍口伝丞預り之御舟犬相煩申候間、証人を被遣、見置候様ニと被申候、御犬煩申時ハ、中津此已
ヘバ検使ニ見セシ | 〃
ム | 来、証拠人を被遣、御見せ被成候由申ニ付、岩田喜右衛門を遣、見候へと申付候事、
町奉行町ノ者町水 |一、吉田ぬい被申候は、町水夫之儀、当年ハいつもゟ大分ニ被成御懸候、左様ニ候てハ、町之ものと
夫大分ノ課役ニ迷 | もめいわく仕由申候、何とそ御談合仕候て、弐百之内ニヘシ申候様ニと被申候、其段何も談合
惑スルヲ申ス | 可仕と、返事申候事、
瀧口伝丞預ノ犬大 |一、岩田喜右衛門申候は、瀧口伝丞預り之犬相煩申ニ付而、我等見届ニ参候、殊外大病ニて御座候、
病ニ付見分 | 其上、老犬ニ罷成候間、頓而死可申と存候と、申候事、
可児清左病死 |一、可児兵介ゟ、沢井弥左衛門を以、被申候は、可児清左衛門相果申候間、御番替をも被仰付候へと、
| 被申候、尤罷上、申度候へとも、弥左衛門を以申上候と、被申候事、
馬関ニテ犬遣 |一、岩田喜左衛門申候は、明日馬関へ御犬遣ニ参度と申候、参候へと申渡候事、
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| 八日 河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
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|一、助進・修理当番也、
金山奉行湯治ヨリ |一、春木金大夫、此中湯治仕、罷帰候由にて、登城被仕候事、
帰ル |
|一、大学殿御登城候而、被仰付候ハ、可児清左衛門病死仕候、知行物成之内、御ふちかたかし迄を、今
| 迄ニ取遣候由、子共申候、其分ニ心得候へと、被仰候事、
三斎上洛ニ水夫六 |一、来ル廿八日、 三斎様御上洛ニ付、水夫六百七十人余か申付旨、被 仰下候ニ付、浦水夫・当町
百七十余人ヲ要ス | 加子を申付候処、当町之もの共、当分銀子を取かへ、加子を雇申儀めいわくニ存候、其上、ぬれ
小倉町人水夫ノ課 | 米を本米ニして返上可仕由にて、壬十月ニ被成御渡候、又、大橋ノろくろひきをも町人ニ被仰付
役ニ枚枠ス 大橋 | 候、何かニめいわく仕候通、書物仕由にて縫殿助持被上候、さて/\にくき仕合ニ候間、出候へ
ノ轆轤挽ヲ町人ニ | と可被申付由、申渡候事
課ス 迷惑ストノ |
書物ハ憎キ仕合 |
| (川棚、豊浦郡)
肥前瘡ノ湯治願許 |一、釘本三太郎、ひせんかさを相煩申候間、長門ノ内かわたなへ湯治仕由被申ニ付、御暇可被遣由、
可 | 佐渡殿へきりかミ進之候也、
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| 九日 加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
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|一、修り・兵庫当番也、
横山重嘉女急病ニ |一、助進娘、在郷にて、急ニ病之由、申来ニ付、出川作庵を申付、遣候也、
出川作庵ヲ遣ス |
三斎幕府横目ヲ福 |一、佐渡殿ゟ、久兵衛を以、被仰候は、豊後御横目衆、 三斎様ゟ福嶋にて被成御振舞候は、此方ゟ
嶋ニテ振舞ウ故小 | 之御ふるまいハ入申間敷と存候間、其段、中津ゟ之返事仕候へと被仰候、其分ニ可申遣返事仕候事、
倉ヨリハ不要 | (塩飽屋)
三斎用ノ雇水夫ニ |一、吉田縫殿助ゟ、使者を以、被仰越候は、中津ゟ被仰越候御やとい加子之儀、方々へやといニ、し
ツキ町中ヨリ塩飽 | わくや伝次を、町中ゟ遣申候、就其、多分先様ニて加子可有之と存候、若、有合不申候ヘハ、如
屋ヲ遣ス | 何ニ御座候間、御横目を壱人申付候様ニと、ぬい被申候、此方ゟ、御横目付申儀、成不申候間、
| 其方ゟ堅やとい申候様ニ、被申付候へと、返事申候事、
片山示庵鳴海丹後 |一、片示庵家・鳴海丹後家繕作事之奉行ニ、服部左次兵衛・佐田長三郎、両人申付候事、
ノ家修繕奉行任命 |