津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助

2021-05-15 18:25:10 | 人物

                   

 わずか一年数カ月信長に仕えた、黒人弥助を取り上げた著書だが、今迄日本人でチャレンジする人がなく日本在住の英国人日本大学講師のロックリー・トーマス氏が上梓された。
非常に興味深い著書だが今一つ満足できないのは、如何せん弥助本人に係る資料が少なくて、これは著者の責任ではないだろう。

 今晩のTVで「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」が取り上げられるみたいで、大いに楽しみにしている。
アメリカで映画化の話があるようだが、この著書がヒントになったのだろう。
今日のTV(BSプレミアム 9:00~10:30)で詳細を知ることが出来そうで楽しみにしている。
遅ればせながら皆様もご覧ください。

追記:5/16 AM9:10~
非常に興味深く拝見した。上記著書は初版が2017年2月の事だから、その後の弥助に関する研究は一段と進んでいることが感じられた。
最近の外国文書の解析から、加藤清正に関連する記述に「くろほう(黒坊)、妻子・・」云々という記述が発見されたという。
私は今、加藤家の侍帳に「弥助」の名前がないかどうかを、チェックを始めた。(無駄だとは思うが?)
そして、伊藤なお枝氏著の「清正公の南蛮服」を本棚から引っ張り出した。つながりを求めての事である。
清正のもとに「弥助」が在ったと考えると、清正のルソン交易などの発想におおいに関係するのではないかという思いである。
こうしてみると、誠に歴史は面白くロマンに満ちていることを感じざるを得ない。

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■地図散歩・京町

2021-05-15 16:43:05 | 地図散歩

 コロナ暇にまかせて、熊本城下町図(所分絵図)をにらみつけている。
実はデスクの近くの床に積み上げた資料類を片付ける中で、久しぶりに吉田如雪(鳩太郎)に関する史料が顔を出した。
何といっても彼の「明治十年日記」は興味深い。
如雪は薩摩の熊本進軍の報に接し、熊本城炎上の前々日二月十七日から日記を書き始めている。

十九日の朝食後、如雪は京町の風呂屋・浜田屋に出かけている。風呂に入っていると亭主が火事だと告げに来る。
亭主は山崎(花畑邸がある一角)ではないかという。
如雪は風呂屋を出ると加藤神社へ駆け出している。ここで熊本城本丸近辺からの火災であることを確認して呆然とするのである。

   二月十九日 晴
  朝飯後四時過(10時過ぎ)京町浜田屋の湯に行く。然れども戸を閉して寂然たり。亭主言う「湯は有り入浴せよ」と、よって湯に浴す。
  亭主云う「火事あり急ぎ出て見よ」と、予裸体のまゝ三階に上り之を見るに辰巳の方向に当って黒煙天に沖す。亭主云う「山崎なるか」。
  予云う「然らず下ノ通丁方角なるべし」と。然れとも寒風猛烈裸体に堪へず、又入浴す。既にして亭主大声にて予を呼んで云う
  「火事は御城」と、予狼狽楼に上って見ると雖も確定に見えず、依って出て加藤社に至る。城中東南の隅(本丸なり)より天守際にて
  火焔天を突く、今日西北の風烈しく飛火草葉丁水道丁辺に吹き落して所々に火を発す、其の勢い惨然として消防の人なく只火勢に任す。
  遂に九時頃(12時)より天守に火懸り八時(2時)に至り只天守台を見るのみ。加藤清正公造築以来連綿として西国の名城と称する城
  今日一炬の火を以て
灰燼に属す。加藤社の神慮如何ぞや。
  本丸一宇も残さず、独り宇土櫓のみ祝融を兎る。今日鹿児島征討の勅旨鎮台に下る。

加藤神社はかっての、氏家家があった広大な屋敷の跡にあった。現在は京町台から熊本市役所方面に至る道が貫通している。
ここからみれば、本丸は北方向500mにもならない。出火から数時間で燃え落ちている。

さて本題・・浜田屋はどこにあったのだろうかと色々調べているが、とんと判らない。町家が並んでいたのは、現1丁目から2丁目の一部までの両側である。
如雪の家は、赤坂口にあったから、約1~1,2キロほどを風呂屋通いしていたことになる。湯冷めなさいませんように・・・

  

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