津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■どくだみの花

2021-05-07 14:06:33 | 徒然

 10時前、小雨がぱらついている中、ゴミ捨てを兼ねて散歩に出ました。
1㌔ほども歩いたら、身体が揺れて仕方ありません。頭が痛くなり用心第一と途中で引き返すことにしました。
あるお宅の入り口付近に「どくだみ」が一叢をつくり白い可愛い花を咲かせて美しく、一本だけ頂戴しました。
真っ白い十字の花を付けますが、その独特の匂いから、茶花などに使われることはありません。
そんなことから、これを飾る人も少ないようです。
偏屈じいはそんなことには至って無頓着ですから、花瓶を見つけ出して飾ってみました。なかなか良いものです。
人感センサーで点灯した照明で光は足らず、影がうっていますがご勘弁のほどを・・・・

               

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■珍品・曽呂利新左衛門書状

2021-05-07 09:09:08 | オークション

     【真筆】【蘇山】[曽呂利新左衛門] 11144 掛軸 手紙 細川三斎宛千利休の茶杓 合箱 紙本 細川忠興 在銘

      

 曽呂利新左衛門が細川三齋から茶会の案内と共に、利休の茶杓をもらい受けたことに対するお礼と出席の返事の状だとされている。
釈文が次のように添えられている。

         千利休茶杓筒入
         御贈被下難有頂戴
         いたし候弥々明日は御茶
         被遊候坐被仰渡承知
         仕候間必ず参上いたし
         御禮可申上候
          松風のすませば
           釜のたぎる音
         御一笑可被下候
          十月二十日 曽呂利新左衛門 
                     宗拾 (花押)
         細川三斎様
            御中

新左衛門は本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいうから、「宗拾」の記名も納得はできる。
新左衛門の没年はウイキペディアによると慶長2年、慶長8年、一番遅いもので寛永19年とあるが、細川忠興が三斎を名乗る元和6年閏12月である事からすると、慶長2年・8年説は成立しない。
元和6年以降寛永19年までの約20年の間のものとなる。
茶人としての細川三齋研究の第一人者・矢部誠一郎氏の著「細川三齋・茶の湯の世界」や「利休随一忠興」をみても、この茶事に対しては取り上げられていない。
三斎の資料は、肥後八代に入城後しその死後は、宇土細川家に引き継がれたが、災害等で失われたものが多いとお聞きする。

これが本物だとすれば、誠に珍品と言わざるを得ないし、茶道研究の上でも画期的なことではないのか。
映像をUSBに保存した。



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■細川小倉藩(563)寛永八年・日帳(十一月十七日~十八日)

2021-05-07 06:15:05 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十一月)十七日~十八日

         |                                       
         |   十七日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也
池上某滞米ヲ知行 |一、池上加兵衛、手前滞米有之ニ付而、加兵衛知行物成年々を以、取立被下候様ニと申候、左様ニ無
物成ヨリ取立ルヲ |  之候ヘハ、礑つふれ申候、左候は、加兵衛小者之切米・御ふち方、加兵衛知行ノ物成之内ニて被
願ウ 知行方奉行 |  遣、滞米は年々知行物成ニて取立被下様ニと申候、其段■■加藤新兵衛と談合仕、右知行之物成
ト談合ス     |  を以、年々ニ取立申候様ニ、相究申候事、
菊野伊織ヘノ弔米 |一、伊織死去刻、御米遣申候、弔米ニ相立申候はすニ、加藤新兵衛と談合相究申候事、右之様子、兵
         |  庫へも申渡候事、
家老惣奉行談合  |一、今日、御家老衆へ、三人ともニ談合ニ参候事、
幕府府内横目ヘノ |一、豊後御横目衆へ被遣 御書之御判紙、四枚被成御下候を、我等共三人へ持参仕、佐渡殿へ相渡申
忠利書状ノ判紙ヲ |  候事、
松井興長へ渡ス  |
町加子      |一、長崎へ、廿丁立ノ小早差下候、加子をひかへ十六人、大坂へ小早明日上せ候、此是ニ八人、合廿
         |  四人、町加子可被申付由、吉田縫殿へ申渡候事、             〃
紫蘇ヲ植へシム  |一、紫蘇うへ候儀、上林甚介へ申渡候事、
         |一、坂根九右衛門、明後日、中津へ御礼参度由被申候、可被参由、申渡候事、
藤崎某中津へ使シ |一、藤崎喜八郎、中津ゟ、今日被罷帰候、則、三斎様ゟ御小袖壱つ・御道服壱つ拝領被仕之由、被申
三斎ヨリ下賜品  |  候事、

         |                                       
         |   十八日  河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也
         |一、藤崎喜八郎、中津ゟ
         |  〃〃〃〃〃 〃〃〃
         |一、寺嶋主水殿へ被遣銀子壱包、慥うけ取申候、但、立石助兵衛方へ、同市兵衛ゟ上せ候銀子之由也、
         |   (慰英)                                 (横山重嘉)    (之脱)
請取       |一、仁保太兵衛殿へ被遣銀子壱包、請取申候、但、佐藤少左衛門所へ、助進殿ゟ被遣銀子由也、
         |    右之前、慥請取申候      桑田左兵衛〇(黒印)
         |一、三斎様へ、金守形右衛門尉、御使者ニ被参候由にて、今日参着候、私共へ、 御書被成下候也、
         |                                  (淀、山城久世郡)
三斎書状上林味卜 |一、上林味朴所へ、従 三斎様御書被遣候を、味卜内西川忠兵衛方ゟ便宜ニ、よとつき山所まて遣
宛        |                                       (築山兵庫)
         |  候而、それゟ味卜所へ相届候様ニと、申候ニ付、仁保太兵衛・野瀬吉右衛門方へ、其段具ニ申遣
         |  候、御舟頭桑田左兵衛ニ上せ申候事、
江戸上方ヘノ書状 |一、今日、江戸へ被遣衆、尾藤勘丞、幷かわりの御鉄炮衆二人、此衆渡候物数覚
物数之覚     |
         |  一、三斎様ゟ之 御返書ノ御文箱ハ勘丞ニ渡候事、
         |  一、御年寄衆ゟノ御請ノ文箱壱つ、
         |  一、我等共ゟノ御請ノ文箱壱つ、
         |     右ハ御鉄炮衆ニ渡ス、
         |          にて
京都ニテ買物ノ銀 |  一、いよ殿ゟ京都かい物之ため、銀子壱貫目ほと入候とて、しふかミ包ノ箱壱つ、勘丞ニ渡ス、
子        |
         |
         |  一、松井宇右衛門方留守ゟ、上せ被申銀六百目の由、勘丞ニ渡ス、但、大坂にて両替して、被遣候
         |    へと、太兵衛方へ添状仕候事、
         |  一、御かね殿ゟ、御上被成候御たひ箱も上せ候事、
野牛ノ粕漬    |    野牛ノかすつけ
         |    塩鴨
         |    塩松茸     壱駄ニして遣也、
         |    あゆのすし
おらんだ織ノ木綿 |    おらんたおりのもめん六たん    
         |
         |  (金守)      (島津家久)           (脱アルカ)
         |一、形右衛門被持下候 さつま殿ゟ之御誂ノ十文字、上田忠兵衛ニ渡シ、こしらへ申付候事、
         |                (沢村吉重)
京都呉服十分ノ一 |一、京都呉服十分一ノ儀、今度■■■大学殿連判にて申上せ候、扣ハ大学殿ニ有之也、此儀ニ付、
         |  大学・修り・兵こ・助進へ一紙ニ被成下候 御書、大学所ニ有之也、
時雨ノ壷ヲ天守ニ |一、しくれの御壷、古市宗庵・皆川治ア・林おき三人ニ、藤崎喜八郎ニ渡し、御天守納候事、
納ム       |
         |

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