日帳(寛永八年十一月)十七日~十八日
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| 十七日 加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
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|一、助進・修理当番也
池上某滞米ヲ知行 |一、池上加兵衛、手前滞米有之ニ付而、加兵衛知行物成年々を以、取立被下候様ニと申候、左様ニ無
物成ヨリ取立ルヲ | 之候ヘハ、礑つふれ申候、左候は、加兵衛小者之切米・御ふち方、加兵衛知行ノ物成之内ニて被
願ウ 知行方奉行 | 遣、滞米は年々知行物成ニて取立被下様ニと申候、其段■■加藤新兵衛と談合仕、右知行之物成
ト談合ス | を以、年々ニ取立申候様ニ、相究申候事、
菊野伊織ヘノ弔米 |一、伊織死去刻、御米遣申候、弔米ニ相立申候はすニ、加藤新兵衛と談合相究申候事、右之様子、兵
| 庫へも申渡候事、
家老惣奉行談合 |一、今日、御家老衆へ、三人ともニ談合ニ参候事、
幕府府内横目ヘノ |一、豊後御横目衆へ被遣 御書之御判紙、四枚被成御下候を、我等共三人へ持参仕、佐渡殿へ相渡申
忠利書状ノ判紙ヲ | 候事、
松井興長へ渡ス |
町加子 |一、長崎へ、廿丁立ノ小早差下候、加子をひかへ十六人、大坂へ小早明日上せ候、此是ニ八人、合廿
| 四人、町加子可被申付由、吉田縫殿へ申渡候事、 〃
紫蘇ヲ植へシム |一、紫蘇うへ候儀、上林甚介へ申渡候事、
|一、坂根九右衛門、明後日、中津へ御礼参度由被申候、可被参由、申渡候事、
藤崎某中津へ使シ |一、藤崎喜八郎、中津ゟ、今日被罷帰候、則、三斎様ゟ御小袖壱つ・御道服壱つ拝領被仕之由、被申
三斎ヨリ下賜品 | 候事、
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| 十八日 河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
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|一、修理・兵庫当番也
|一、藤崎喜八郎、中津ゟ
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|一、寺嶋主水殿へ被遣銀子壱包、慥うけ取申候、但、立石助兵衛方へ、同市兵衛ゟ上せ候銀子之由也、
| (慰英) (横山重嘉) (之脱)
請取 |一、仁保太兵衛殿へ被遣銀子壱包、請取申候、但、佐藤少左衛門所へ、助進殿ゟ被遣銀子由也、
| 右之前、慥請取申候 桑田左兵衛〇(黒印)
|一、三斎様へ、金守形右衛門尉、御使者ニ被参候由にて、今日参着候、私共へ、 御書被成下候也、
| (淀、山城久世郡)
三斎書状上林味卜 |一、上林味朴所へ、従 三斎様御書被遣候を、味卜内西川忠兵衛方ゟ便宜ニ、よとのつき山所まて遣
宛 | (築山兵庫)
| 候而、それゟ味卜所へ相届候様ニと、申候ニ付、仁保太兵衛・野瀬吉右衛門方へ、其段具ニ申遣
| 候、御舟頭桑田左兵衛ニ上せ申候事、
江戸上方ヘノ書状 |一、今日、江戸へ被遣衆、尾藤勘丞、幷かわりの御鉄炮衆二人、此衆渡候物数覚
物数之覚 |
| 一、三斎様ゟ之 御返書ノ御文箱ハ勘丞ニ渡候事、
| 一、御年寄衆ゟノ御請ノ文箱壱つ、
| 一、我等共ゟノ御請ノ文箱壱つ、
| 右ハ御鉄炮衆ニ渡ス、
| にて
京都ニテ買物ノ銀 | 一、いよ殿ゟ京都かい物之ため、銀子壱貫目ほと入候とて、しふかミ包ノ箱壱つ、勘丞ニ渡ス、
子 |
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| 一、松井宇右衛門方留守ゟ、上せ被申銀六百目の由、勘丞ニ渡ス、但、大坂にて両替して、被遣候
| へと、太兵衛方へ添状仕候事、
| 一、御かね殿ゟ、御上被成候御たひ箱も上せ候事、
野牛ノ粕漬 | 野牛ノかすつけ
| 塩鴨
| 塩松茸 壱駄ニして遣也、
| あゆのすし
おらんだ織ノ木綿 | おらんたおりのもめん六たん
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| (金守) (島津家久) (脱アルカ)
|一、形右衛門被持下候 さつま殿ゟ之御誂ノ十文字、上田忠兵衛ニ渡シ、こしらへ申付候事、
| (沢村吉重)
京都呉服十分ノ一 |一、京都呉服十分一ノ儀、今度■■■大学殿連判にて申上せ候、扣ハ大学殿ニ有之也、此儀ニ付、
| 大学・修り・兵こ・助進へ一紙ニ被成下候 御書、大学所ニ有之也、
時雨ノ壷ヲ天守ニ |一、しくれの御壷、古市宗庵・皆川治ア・林おき三人ニ、藤崎喜八郎ニ渡し、御天守納候事、
納ム |
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