「細川小倉藩」のご紹介が終わって、5日たった。
寛永9年暮れの肥後移封までの約1年をいろんな資料からまとめてみようと頑張っているが資料が少なく中々前に進まない。
この時期、記事にもあるように将軍秀忠は病の中にあるが、翌9年の1月24日死去する。
森田誠一氏著の「歴史的滴録」にその秀忠の遺金配分の事が書かれていた。
「その金額は小判換算で563,568両になる」とあり、縁戚に連なる加藤忠廣と夫人、細川忠利と夫人も受領している。
よくよく考えると、忠利夫人・千代姫も忠廣夫人・崇伝院も秀忠の養女であるから義理の間ながら姉妹故、忠利・忠廣も義兄弟の間柄ではある。
出色は何といっても親父殿(忠興・三齋)である。親藩同様の外様と言われた実力者ぶりがここにも見える。
家光の時代となり、家光の強力な意思が発揮されていく。
加藤忠廣は、四か月後罪を得て除封となり出羽庄内に配流となった。そして忠廣にかわり忠利が肥後国の太守として入国することになる。
あわただしい、寛永9年の一風景だが新しい時代の夜明けともいえる。
小笠原秀政
‖-----千代姫
徳川家康----+---- 信康----● ‖
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| +====千代姫 (金100枚・銀1,000枚 小判換算1,860両)
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| | 細川忠利 (銀5,000枚 小判換算4,300両)
| | 父・忠興 (金500枚 小判換算5,000両)
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+----秀忠----+----家光
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| | 加藤忠廣 (銀5,000枚 小判換算4,300両)
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| +====崇伝院 (金200枚・銀1,000枚 小判換算2,860両)
+----振姫 ⇑
‖--------------崇伝院
蒲生秀行