今日は昼食後に散歩に出たが太陽がほとんど真上から照り付けるから、ふらふらになり足元がおぼつかなくなった。
自衛隊の南側の県道沿いにある分離帯の植え込みに、可憐な「昼顔」が花をつけていた。
花言葉は「絆」なかなか今風で良いではないかと思ったら、西洋ではまったく受け止め方が違って「情事」と艶っぽくなっている。
花からはそんな感じは受けないが・・・
日が変わるころから明日一ぱい、また大荒れの雨の予想、今日は梅雨の谷間となりました。
ひるがおや 明日大雨の予想あり 津々
今日は昼食後に散歩に出たが太陽がほとんど真上から照り付けるから、ふらふらになり足元がおぼつかなくなった。
自衛隊の南側の県道沿いにある分離帯の植え込みに、可憐な「昼顔」が花をつけていた。
花言葉は「絆」なかなか今風で良いではないかと思ったら、西洋ではまったく受け止め方が違って「情事」と艶っぽくなっている。
花からはそんな感じは受けないが・・・
日が変わるころから明日一ぱい、また大荒れの雨の予想、今日は梅雨の谷間となりました。
ひるがおや 明日大雨の予想あり 津々
以前■新発見「水鳥之御間」を書いた。この折「新発見」としたのは、復元されたすばらしい本丸御殿がどのように使われたたのかという素朴な疑問からであり、この絵図を見出したことでよく理解することができた。
一方、花畑館はどのように使われていたのだろうか?
随分以前に史談会で勉強をした「有吉家文書」には、種々の御規式にかんする城中・花畑館・奉行所・時習館での作法が事細かに記されている。
大寄せの時には、当然ながら座班の決まりにより座る場所が決まっているが、これはお次の御小姓たちの指示があったらしい。
花畑館のそれぞれの部屋はどのように使われていたのか、大変興味深いが、これはいろいろな資料の行間をたどらざるを得ない。
絵図が遺されているものの一つに、「御謡初め」の座班の図が遺されている。
これを見ると、中柱の間・佐野の間・鷹の間が使われており、藩主の御上段は「歌仙の間」にしつられられている。
当時の武家屋敷の使い方は、臨機応変で、歌仙の間と中柱の間との間にある名前が付けられていない30帖ほどの部屋などは、藩主や重役たちが通路として通り抜けていたのではないかと思われる。建築用語でいうユーティリティー(多目的室)の感がある。
この絵図でみると、歌仙の間に上段がしつられられ、この30帖の部屋は空き空間として使われていない。
中柱の間に此の時の主役である中村庄右衛門が、大夫や笛・太鼓・大鼓・小鼓の人達を従えて控えている。
中柱の間と佐野の間との間の名称がない細長い部屋にも能の関係者が控えている。
拝見の為に臨席する人たちは、上段の左手(廊下?)にお次衆が10人弱ひかえ、上座を右手に見て御一門や家老・備頭・大頭などは廊下に座している。着座以下は佐野の間、御物頭以下は鷹の間である。
この絵図は、まさにヒエラルキーを嚴然とかんじさせる、大変興味深い資料である。