津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■坪井七曲りと木山往還七曲り

2021-05-26 17:06:55 | 地図散歩

 もう30年ほども前の話である。私の伯父嫁の実家S家が当時坪井の七曲りにあった。
所用があって車で出かけたが、その名の通りクランクが連続し大いに難儀したことを思い出す。
新国道三号線の開通によって、分断されたが、坪井の必由館高校(元米田家屋敷)の正門前からやや進んだかってはどんずまりの所から右折し、黒髪1丁目の椋天神のあたりまで繋がっていた。
だから私が入り込んだ七曲がりは、四曲がり目くらいの所であったのだろう。
地図上は国道につながっているように見えるが、5・60センチくらいの段差が有り、帰りはこのクランクをバックで出たという次第である。
もうS家も引っ越されたので出かける機会もないが、今一度歩いてみたいし、椋天神当りにも出かけてみたいと思う。

       
   

 過日もブログでご紹介した「木山往還」ここにも七曲りが在る。ここは全く道筋が変わることはなく存在している。
ただし、木山往還自身は、白山から水前寺地区で豊肥線により分断された。しかし数少ない横断路の一つとしてかろうじてつながっている。
県営堀之内団地の南側から、国府高校の北側をへて、私が幼少期を過ごした出水町(今)のどんどん川に沿って砂取四つ角のやや手前に顔を出すことになる。
ここから県立図書館の前を通り、八丁馬場から健軍神社へと進むことになる。
こちらも初めての人は迷い込んで身動きが付かなくなるが、現在は携帯の地図で居所が瞬時にわかって大助かりである。

       

                                 ルートは 今昔マップon the webで確認済です。

 

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■佐貮役について

2021-05-26 06:48:01 | 歴史

 花畑邸内には藩主の居館とは別に、右手に家老の詰め間を有する建物が在る。家老は月番で、藩主が在国の時にはこの詰め間に出仕したが、藩主が参勤で江戸詰めの折にはそれぞれの屋敷で執務に当たった。
家老の執務に当たっては、その業務にはそれぞれの家臣があたり、業務の遅滞や機密の漏洩など不都合が起こることがあった。
そのため、重賢公の時代になり、家老は奉行所に詰めることが規定され、彼らの業務は機密の間で行われるようになり、陪臣の介入が止むことになった。           

■熊本藩の支配機構--1 「機密の間」(一)
■熊本藩の支配機構--1 「機密の間」(二)

機密の間には「佐貮役」がおかれ、家老へ上げられる事案はここを通されることになった。
佐貮役は「さじ役」と読むようで「佐次」という字をあてられていることがあるが、この佐貮は漢語である。
「漢語網」というサイとに、「佐貮詞語解譯」がありその意は「舊時指擔任副職的官吏」であり「輔佐主司的官員。明 清 時,凡知府、知州、知縣的輔佐官,如通判、州同、縣丞等,統稱佐貳。其品級略低于主管官」と解説している。
この意からすると、「府や州や懸において補佐的官員として勤めて、これらを佐貮と称した」ということか。
高禄の者が勤めることはないが、高潔な人物が定められたのであろう。機密の文書を扱い、これらの漏洩が認められた時は罰せられたという。合議体としての最高機関である「会議」には、家老・中老・第奉行・奉行・用人・目付に加え佐貮役二人が出席した。この「会議」のまえには案件について「内会議」「本会議」「復議」にかけられた。
この「会議」においては、佐貮役が必要書類の朗読を行い、書記を務めた。
今日でいうならばさしずめ、総務・秘書課長といったところであろうか。

                                                                                       

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