津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(三十六)会議御入之式

2021-09-07 16:45:24 | 先祖附

   〇会議御入之式

一、御供揃一時前出仕 於詰間ハ例之通致座着候事
     但多ハ四時ニ被為入候得共 臨時之御模様も可有之事
  御供揃一つ時(2時間)前に出仕 詰間に於いては例のり座着いたす事
     但多くは四つ時(10時)に入らせられるが 臨時の模様も有るべき事
一、被為入候者直ニ会議相始候間手配前以御奉行江懸合置候事
  入らせられれば、直に会議は始るので手配は前以って御奉行へ懸合い置く事
一、會議ニ被為入候事ニ付 御用番為伺御機嫌御殿江不及出仕候事
  會議に入らせられる事に付 御用番(月版家老)は御機嫌伺いのために御殿へ出仕におよばぬ事
一、御入前詰間江御用人より御取次御小姓役を召連御居間向御手水所見繕セ御刀掛を出し置候事
     但右物初ニ御用人罷出御用番江相伺致同意候 尤御次坊主者罷出候儀不相成候事
  御入り前に詰間へ御用人より御取次御小姓役を召し連れ、御居間向の御手水所に見繕せ御刀掛を出し置く事
     但右の物初に御用人罷り出、御用番へ伺い致し同意のこと、尤御次坊主は罷り出ることは成らぬ事
一、御供揃   一、御立  一、坂之下  一、御帰座
一、御立之御注進ニて煙草盆等取入刀を茂取被付之事
  御立の御注進にて煙草盆等取入れ刀をも取付られる事
一、坂下御注進ニて御玄関まて南壁付 西頭ニ御出迎仕候
  坂下御注進にて御玄関まて南壁付 西頭に御出迎すること
一、御帰座之節茂右同断 東頭罷出候
     但御次之御入之時者御敷しニ罷出候得共 会議ハ大勢ニ付本行之通
  御帰座の節も右同断 東頭に罷り出る事
     但御次の御入の時は、御敷しに罷り出る共 会議は大勢に付本行の通
一、以前ハ銘々之硯箱 刀掛張上等一式取入扨又中之間より表之様ニ出ル口も屏風囲ニ相成候得共 御式之御入ニて無之候間
  有姿を奉入御覧候方可然と申談 奉窺候処 御意之筋茂被為在旁方ニ付文化九年八月十六日之御入より平常之通差置候事
     但西側之同席坐者御通筋ニ付 硯等左右ニ寄候 且又口之間より表通之北之口江口之間例之衝立を壁付ニ持直覆
     候事

  以前は銘々の硯箱・ 刀掛張上等一式取入れ、扨又中の間より表の様に出る口も屏風囲に成れ共 御式の御入ではないので有姿を御覧入奉る方然る
   べきと申談じ
窺いたてまつる処 御意の筋も在りなされ、旁方に付文化九年八月十六日の御入より平常の通り差置く事
     但西側の同席坐は御通筋に付 硯等左右に寄せ 且又口の間より表通りの北の口へ口の間例の衝立を壁付に持直覆う事
一、御入有之候得者御玄関より口之間まて参控居候 尤西側南頭ニ同席 大御奉行座着 東側ニ御次一手右同北側ニ西頭御奉
  行以下坐着之事
  御入り有れば、御玄関より口の間まて参り控え居ること 尤西側南頭に同席(家老) 大御奉行が座着 東側に御次一手右同北側に西頭御奉行以下坐
    着の

一、御用人より御宜段申達候ヘハ同席ハ口ノ間南之壁付ニ脇差を脱詰間ニ入口敷居外(当時ハ不残帯劔佐弐役ハ手数有之
  候ニ付脱劔)
直ニ御辞儀仕銘々之坐ニ着候 其外之面々も一同ニ罷出候事
  御用人より御宜しきのこと申達せられれば同席(家老)は口の間南の壁付に脇差を脱き、詰間に入口敷居外(当時は残らず帯劔、佐弐役は手数
  が有るにつき
脱劔)直に御辞儀仕銘々の坐に着くこと候、其外の面々も一同に罷り出る事
一、同席者南側西頭ニ御居間御敷居際より坐着之事
     但会議中ハ突居候得共 平伏ニ不及候事
  同席者南側西頭に御居間御敷居際より坐着の事
     但会議中は(手を)突居れ共 平伏には及ばぬ事
一、相済候得者伺前之御奉行より大御奉行江其段申達 大御奉行より御用番江申達候間 皆一同ニ御辞儀退去 夫より口之間
  ニて帯劔之事

     但此取引次第ハ佐弐役 御目附御奉行 大御奉行 大御目附同席ハ跡引ニ下り候 右之通ニ而都合宜候事
  (会議が)済めば伺前の御奉行より大御奉行へ其段申達し 大御奉行より御用番へ申達せば 皆一同に御辞儀し退去 夫より口の間にて帯劔の事
     但此取引の次第は佐弐役 御目附御奉行 大御奉行 大御目附同席は跡引に下ること 右の通にて都合宜しい事
一、御用有之候得ハ会議御前後之内ニ召出奉願候儀も不苦候事
  御用有れば会議前後の内に召し出願いたてまつることも苦しからぬ事
一、相済候ヘハ直ニ被遊御立候付 御供廻り之御模様見計御送ニ前条之通罷出候之事
  (会議が)済めば直に御立あそばされるに付 御供廻りの模様見計い御送に前条の通り罷り出る事
一、御立被遊御敷出之面々平伏を之様子を見請被候事
  御立遊ばされ御敷出の面々平伏の様子を見請けられる事
一、御帰殿後 出仕ニ不及候事
  御帰殿後は 出仕には及ばぬ事

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■ガラシャは「美人だったのか」という切り口

2021-09-07 06:53:16 | 徒然

 先日■ガラシャの本もこれが最後・・・を書いたが、ここでかいたように階下にお住いの93歳のご婦人に、三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」とその英文翻訳本「Lady Gracia」を進呈した。

そんな中、「明智光秀と細川ガラシャ」が届いた。(早かった~~)
四人の著者の中で一番に目を通したのが井上章一氏の「美貌という幻想」である。いかにも井上氏らしいガラシャは本当に「美人だったのか」という切り口である。
少し意地悪な切り口だが、2016年の新書大賞を得た「京都ぎらい」のように、その優しいお話の仕方とは異なる辛辣さに、私は大いに賛辞を贈りたいと思う。
そしてこれは同氏の御著「美人論」の延長線上の話とも思える。
この本は2018年12月に長岡京市で開かれたシンポジウム「細川ガラシャの美しさーいつ、誰が彼女を美しくえがきだしたのか」から、特に郭南燕氏・フレデリック クレインス氏・井上章一氏の激論の延長線上で出版されたものである。

史料を紐解くと「ガラシャ=美人」だという証明は得られないようだ。研究者の内で「美人だ」と論じた人たちもその典拠は明らかではないという。
「明智軍記」にそれらしい記事が見受けられるが、この成立年は相当後のものであり、信憑性には大いに掛ける。
つまるところ美人説の出どころは定かではなく、後代の小説家に著作によるものであろう。
女性の事についてはあまり筆が達者ではない司馬遼太郎が「胡桃に酒」の中では大いに持ち上げている。気色が悪いくらいである。

ガラシャの名前が今のように周知されるようになったのは、1920年ころだとされる。「美人論」によると明治期には「美人罪悪論」というものがあったのだそうな。
キリスト教が容認されて以降、様々なキリスト教関係資料が陽の目を見て、聡明なガラシャ像が作り上げられていく。
研究者たちはその聡明さは美しさも備えた人であったろうとの推測が見て取れる、断定をしている論考は全く見えないらしい。
研究者は典拠のない「美人説」を禁断の一歩手前で控えたのである。

いわゆる学者先生が、このような論点を以て論文を書こうとする人は見受けられない。
市井のもの好きが調べるには面白い着想だが、ガラシャ関係の著作や論考はさていくつあるのやらつかみきれない。
是をすべてを調べ上げることは、私ならば手におえない。私が持っている10数冊の著作でさえこれを調べるためには、そのすべてを精読しなければならないから、これはもう願い下げである。

例えば「ガラシャ」を描いたいくつかの有名な作品がある。
その中で私は前田青邨の「細川ガラシャ夫人」が大好きだが、美人かというとそうではなかろうが、聡明さがにじみ出た御姿である。
美人かどうかは論外であり、論ずるに足らないと思ってきたが、井上先生のこの切り口には畏れ入ってしまった。
ご一読をお勧めする。

コメント (1)
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