津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■影と願

2021-09-30 17:08:54 | 書籍・読書

 最近購入した「文豪と俳句」を読んでいたら、誠に面白い話が紹介されていた。(p33)
高浜虚子が幸田露伴に手紙を送り「巡礼の笠にあるさくらかな」という句を添えたところ、露伴はこの句の一文字「影」を「願」と読み違えてしまったというのだ。
正岡子規が露伴を尋ねた折、露伴は虚子の手紙を取り出して「巡礼の笠にあるさくらかな」と紹介したらしい。
まわりまわって子規から虚子の元へ、伝えられたそうだ。

虚子は露伴を大いに尊敬していたので、露伴の読み違えを了とし、露伴の読みに依る句を自分の句にしたという。

さて「くずし字用例辞典」から二つの文字を取り出してみたのが、このようなものである。

                                                     

 さて、古文書の世界では何ともいただけない話でる。筆に慣れ親しんだ露伴先生もこのような結果になるとは?
虚子先生がどのような「」なる字を書かれていたのか、手紙に書かれている字だから小さい文字であったろうが、よく似た字体だとは言え、文脈を追って文字を特定するという古文書の世界では起りえない話ではある。
しかし露伴先生は即座に「」という文字をもって、句の世界における回答を得られたのだろう。
間違いは間違いで何とも不思議な話ではある。

一文字の読解に苦労している身からすると、「ありえない~」と叫びたいところだ。

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■川田順著「幽齋大居士」‐はしがき

2021-09-30 06:56:37 | 書籍・読書

 幽齋大居士
    はしがき

 戰國時代最高の教養人を描き出さうとする。文にして武、武にして文、兩者一如の
一偉人を寫し出さうとする。
 史傳かと訊かれたならば、無条件の肯定は致しかねる。何故とならば、古文獻を参
考とし、あらまし歴史に據りながらも、筆者の空想と相違とを往々挿入れるであろう
から。小説かと問はれたならば、むろん「否」と答へる。何故とならば、時々小説的
描寫を試みつゝも、全體として筋の發展といふ程のものを企てないから。随筆かと尋
ねられるか。大分それらしいふしもある。論文かと言はれるか。少々は歌論や史論も
試みるであらう。
かやうに、何とも定義しがたき悪文を以つて、敢へて幽齋大居士に近づかうとする。
 讀者の便宜のため、主人公の略歴を最初に掲げるがよかろう。如左。
 天文三年、三淵伊賀守晴員の子として生まれ、萬吉と穪した。七年、細川元常の養
嗣子となる。細川氏は清和源氏、代々足利將軍家の要職にゐた名門。萬吉も將軍に近
侍し、義藤(後に義輝と改む)の諱字を授けられて藤孝と改名した。永禄八年五月三好
松永のために義輝弑せられ、その弟義昭も亦危かつたが、藤孝奇計を以つて助け、共
に織田信長に投じた。十一年十月、信長、義昭を奉じて將軍とした。天正元年七月、
義昭は信長を伐たんとして却つて敗れ、室町將軍家滅亡。この時、藤孝は信長に属し
て淀城を攻略し、功により京都桂川以西の地を賜はり、長岡に館して長岡を族穪とし
た。四年三月、信長に從ひ一向衆徒を石山に攻め、翌年二月、紀州雑賀征伐に加はり
て力戰した。八年九月、丹後に封ぜられ、やがて一色氏を亡ぼして同國田邊城に移
る。九年、羽柴秀吉中國征伐の際、藤孝は因伯の境に出兵して、これを聲援した。十
年六月本能寺の變に遇ひ、剃髪して幽齋玄旨と號す。十三年三月、秀吉の根來征伐に
從ひ、十月從二位法印に敍せらる。十五年三月豊臣秀吉の九州を征するや、幽齋も行
きて九州道の記を著す。十八年、小田原に出陣し東國陣道の記を著す。 文禄元年三
月、豐太閤に随ひ名護屋の本營に赴く七月、島津歳久の罪を問ふべく薩摩に出張。三
年二月、豐太閤の吉野山觀櫻に随行した。慶長三年八月秀吉薨去。五年、石田三成が
徳川家康を伐たんとした時、幽齋父子を誘つたけれども、拒否した。七月、三成の軍
田邉城を攻めたが、幽齋奮戰して、容易に陥落しない。朝廷、幽齋の死によつて歌道
の廢れんことを憂へ給ひ、勅旨をもつて包圍を解かしめられた。九月、關ヶ原役の直
前、幽齋 田邊城を去つて、一時高野山に遁れた。十一月、嗣子忠興豊前小倉に封ぜ
られて田邊を去つたが、爾來幽齋は多く京都で暮したらしい。家は吉田山の麓に在つ
た。十五年八月廿日京都に薨、年七十七。幽齋、若くして三條西實枝に和歌を學び、
後、古今傳授を承け二條流歌學の権威となる。家集を衆妙衆といふ。明治三十五年十
一月十二日、正二位を追贈せらる。

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■「細川小倉藩年表稿」を・・・

2021-09-30 06:24:34 | 徒然

 細川家の小倉藩時代のある事件を調べているが、「福岡県史料・近世史料‐細川小倉藩」を読んでもうかがい知れないことが多々ある。
忠興時代の史料が抜け落ちているのだが、これはこれ等の史料が忠利の熊本移封に伴い、八代に移されたことによるものと思われる。
三斎の死後、これらの史料は宇土支藩に移された。
その後、一部は戦後九州大学に収められているが、その他の史料は水害や戦災などで散逸したと聞く。
山本博文氏の名著「江戸城の宮廷政治」は、三斎忠興と忠利父子の間でやり取りされた多くの書簡をベースに、丁度この時代を舞台にして書かれている。
素晴らしい著作で座右して読んでいるが、これとて望むものがすべて網羅されているものではない。
同著や「綿考輯録」「永源師壇紀年録」「福岡県史料・近世史料‐細川小倉藩」「大日本近世史料‐細川家史料」「松井家史料」「内膳家傳」「沼田家記」や、「先祖附」を含む諸家記録などを網羅して、何とかこれを作り上げたいと念願している。
慶長15年(1600)の豊前入国から、寛永9年(1632)の肥後入国までの32年間の年表である。
ノートを準備するのも面倒で、直接PCに打ち込み始めた。まだまだ情けないほどの量しかないが、10年もかければそれなりのものが出来るのではないかと考えている。春名徹氏の「細川三代」や、稲葉継陽氏の「細川忠利」、林千寿氏の「家老の忠義」その他各種論考なども読みヒントをもらいながら、ぬけがないようにしなければならないと思っている。

長生きせねばならん・・ということだ。

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