ながく同好の士により続けられてきた「徳富蘇峰勉強会」が、今年の4月29日「徳富蘇峰・熊本の会」と改組し発会式が行われた。
そして早速会誌「蘇峰」の創刊号が発刊された。ご同慶の至りである。
熊本史談会のN君は、「蘇峰の会」「蘆花の会」「木下韡村の会」等々に籍を置く大の勉強家でもある。
そのN君からこの記念すべき創刊第一号をご恵贈たまわった。厚くお礼申し上げる。
森山淡草先生のすばらしい表紙題字や、小林啓治画伯の雄渾な表紙絵にほれぼれしながら、内容を拝見している。
ながく同好の士により続けられてきた「徳富蘇峰勉強会」が、今年の4月29日「徳富蘇峰・熊本の会」と改組し発会式が行われた。
そして早速会誌「蘇峰」の創刊号が発刊された。ご同慶の至りである。
熊本史談会のN君は、「蘇峰の会」「蘆花の会」「木下韡村の会」等々に籍を置く大の勉強家でもある。
そのN君からこの記念すべき創刊第一号をご恵贈たまわった。厚くお礼申し上げる。
森山淡草先生のすばらしい表紙題字や、小林啓治画伯の雄渾な表紙絵にほれぼれしながら、内容を拝見している。
此藤孝入道幽齋はいまだ若冠の昔より武を講ずる暇あれば敷島の道に心をよせやう/\年の長ずるに及
びて其器に當れり、源氏物語は九條種道公(御法名東光院)の御直傳を受奉り古今和歌集は西三條實枝公
(御法名二光院)より相傳せられ彼古今集一部の秘訣は散位基俊に授られしにより永く二條家の傳受と成
る但幽齋所持せられし古今一部の抄物は為家の筆記成によつて其書の始に祖父頓阿基俊に逢て此集傳受せ
しとは書れしなり斯數なき秘本なるを今度幽齋防戰勝利あらずして城に火をかけ自害せば秘書悉く焼失すべ
八條宮智仁
し惜しみても猶餘りありとて知仁親王御使大名勘介田邊へ下り彼古今集源氏物語を禁中へ上へしとなり玄
旨貴命背きがたく古今と源氏物語と二部の箱に廿一代集を取添へて八島殿の御使へ渡し其外秘蔵せられし
歌書は封じて箱に納め烏丸光廣卿の方へ遣すとて
藻 鹽 艸 書 あ つ め た る あ と と め て
昔 に 返 す 和 歌 の 浦 波
斯して送り申されし後事なりと傳ふ、又其頃僉儀有て一統に奏し申されけるは應仁の頃東下野守常縁古
今集を宗祇に傳ふ宗祇より三條家三世(逍遥院逍明院)を經て今彼秘訣悉く幽齋に傳る左あらば此集武家に出て
重ねて公家に傳りし例東野がためし有は幽齋も又公家へ相傳へ申やうに勅をなし玉ふべきやと有ければ則
禁中へ召れ玄旨は歌道に其名高く旦古今和歌集の傳授は此頃公家にも絶たりしを玄旨幸ひに其傳を繼然ら
ば八條の知仁其頃和歌に志深し苦しからずば彼知仁に傳授せよかしと綸旨有りければ玄旨勅答申上て曰く
下官いまだ若かりし頃より和歌に情をよせるといへども性質が雅來急にして題も辨へ知る所なし中にも古
今集の傳授は其身に應ぜぬ由成しを先師三光院憐をたれて傳置玉ひぬさある未練の能といひ故に和歌の家
にもあらば公家へ相傳へ申さん事いよ/\恐れあれども勅命更に黙止がたし氷は水より出て水より寒く藍
は藍より出で藍より青しと云事あるはたとひつたなき教をなすとも後入道を悟り知るの些の助ともならざ
らんや扨又一師を闇ふして萬義弟路に迷ふとも一鳥一木の名は残るべしとて終に八條殿へ傳授せらる、又
烏丸光廣卿其任に絶たりとてこれも其頃相傳あり時の人八條殿を勅命の傳授と云光廣卿を器量の傳授と云
しなり。
或説に中院通村卿西三條公國公も其後傳授せられしが公國公へ授けられし書の奥に二度御家に返し候
と書れしとなり。
一本に玄旨は諸藝の達人なり寄手の諸將宥めして圍を解へしと勅諚あるによつて諸將丹後を引拂ひ玄旨
を退出せらる勅使は烏丸光廣卿とも又西三條公國公とも記せり、案ずるに若勅使命の趣なればたとひ寄手
の圍を解とも幽齋城を明渡して成がたかるべきか然らば前に顯すごとく徳善院を以て具に勅諚有て其後勅
使を立られたるが實成べし、又烏丸殿西三條殿勅使として田邊下向有事事實なるや丹後國九世戸文殊參詣
有しとて連序の懐紙短冊等其寺智恩寺に有又樗峠より橋立正面の景色眺んと岩瀧浦に船を上げ山伏相傳院
に輿を休められしとて此山伏の許にも光廣卿の短冊に章のものあり。