津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■丹後舊事記・巻之五から(5)「田邊城攻の事」(一)

2021-09-13 14:51:11 | 史料

     「田邊城攻の事」(一)          参考:「田辺城の戦い

 大老奉行の面々大阪に於て評議しけるは丹後侍従忠興近年内府へ親み幼君に對して疎略なれば此度の企
を聞とも定めて内府の味方すべし急ぎ丹後へ軍勢を差向老父幽齋を攻るに於ては越中守玄蕃頭父が艱難を
救はんため其志をひるがへし日頃の科を陳謝せんか若然らずば諸人見せしめの為渠が城を攻略し父幽齋に
腹切らせて丹後一國を治むべし。然らば丹後福知山城主小野木縫殿介を陣將として

    生駒左近(雅樂頭陣代)     石川紀伊守
    前野但馬守           谷 出羽守
    川勝右衛門尉          織田上野介
    山名主殿頭           藤掛三河守
    長谷川 鍋           高田河内守
    毛利勘八郎           早川主馬頭
    毛利民部太夫(毛利勘八郎と重複か)  杉原伯耆守
    別所豊後守           小出大和守
    赤松左衛門尉          山崎左馬介
    前田玄以法印

 丹後、丹波、播磨の軍勢凡一萬七千人丹後へ發向あるべきとなり(中略)去程に小野木縫殿助の諸將七
月廿日に丹後國境に陣を居翌廿一日田邊より一里此方なる福井山に陣を取小野木は圓立寺を本陣となす是
より先に宮津、久美峯山城をせむる播州立野城主石川紀伊守杉原伯耆守なり。かくて七月廿ニ日より田邊
の軍始りければ京都より加勢に入し三刀谷監物陣頭に顯れ召連來りし一族五百卅人を城兵に差添へ持口を
固め大探馬に出ければ忠興の家士山本三四郎主人の命に叛ひて其頃浪々の身と成しが三刀谷が馬の口にす
がり何卒貴君の手に付て相應の心はせおもあらはしたしといふ、三刀谷孝和許容して三四郎を途中よりも
の見に遣す此時海上をみれば船二艘にて福井の方へ趣く者あり是玄旨の家臣麻野吉左衛門なるが朱の鹿の
角の立ものにて船頭に控へたり谷出羽守藤掛三河守河邊に下由嚴敷鐵砲を打かけるに依而麻野吉左衛門引
色になる、孝和此時三刀谷與三輩のもののみ相添山蔭に隠し先鋒佐方與右衛門二陣佐方平左衛門三陣孝和
四陣油語彦兵衛如此列を調べ閑々と兵を進む、谷出羽守藤掛三河守三刀谷が逼るを見て福井の濱より横合
に馳係る孝和態と一町許引退く敵勝に乘て間荒に馳來りて伏兵の前を通る時三刀谷與三鐵砲を放て突かけ
孝和も返し合せ攻軍を追立首三十餘組打に取て馬を斑す。孝和油語彦兵衛に下知して森蔭に旗を立させれ
ば敵大勢なりとや思ひけん跡より附來らざるによつていよ/\事故なく引拂ひけるとなり。

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■「ぼした祭り」といっていた事

2021-09-13 08:50:37 | 熊本
 
■桃節山が「肥後見聞録」に記す「ぼした祭」

 先にもふれたが桃節山の「肥後見聞録」には、藤崎宮の秋の例大祭に関する記事が見える。以前は加藤清正の朝鮮征伐に由来する「ぼした祭」と呼ばれていたことが、この記述で証明させている。今......
 

 ちょうど一年前に書いた記事ですよとgoo blogさんが毎日連絡してくれる。
かって藤崎宮の秋の例大祭は9月15日と決まっていたが、最近は暦の上で連休を作るためか不定日となってしまった。

この記事のようにかっては通称として「ぼした祭」と呼ばれていた。
これは加藤清正が朝鮮を亡ぼしたとして、「亡ぼした」が「ぼした」になったとされる。

しかし関係者はこの説を認められないまま、この「ぼした祭」という呼称は正式には消えてしまった。

 この証明はべつに小泉八雲が明治二十六年九月二十三日、友人に送った書簡に、『没したり、朝鮮没したり』を口々に叫びながら、興味深い馬飾りをつけた馬たちを町通りに駆けるのです。とあるから、これはどうも否定することはできない。

「そういう時代もありましたが、改めます」と言っておけば良かったろうと思うが、市民の中にはいまでも「ぼした祭」として親しんでいるひともある。
「朝鮮を亡ぼした」という由来などとんと忘れてしまっている。

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■有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(四十一)玄猪御礼之式

2021-09-13 06:43:21 | 有吉家文書

  〇玄猪御礼之式       玄猪とは

一玄猪御祝被仰出候段御用人より書付御用番江相達候付佐弐役江相渡候事
 玄猪の御祝い仰出されること、御用人より書付御用番へ相達しの事に付、佐弐役へ渡す事
一夕七半時揃二而麻上下着仕之事
 夕七つ半(17時)時揃にて麻裃着仕る事
    但提灯なし二詰間江相揃候得者宜候事
    但提灯なしに詰間へ揃えば宜しき事
一着服者兼房尤上下其餘之色ニて茂不苦候事
 着服は兼房(憲法小紋)尤上下其の餘の色にても苦からぬ事      

一御小姓頭より案内有之御一門ニ三家より進上之御餅有之候事
 御小姓頭より案内有り、御一門に三家より進上の御餅ある事
一同席之御禮ハ鹿之御間ニ而被為受候付入口ニ御屏風かこひ出来御間取諸事年始之通候事
 同席の御禮は鹿の御間にて受けなされるに付、入口に御屏風かこひ出来、御間取など諸事年始の通りの事
一御出座被為候上御小姓頭より猶知らせ有之候間御一門初一人宛帯劒ニ而罷出候事
 ○末之附紙爰ニ附
 御出座為されたる上、御小姓頭より知らせ有れば、御一門初一人宛帯劒にて罷り出る事
 ○末の附紙爰に附
一御間入口ニ而御辞儀無之御向通より直ニ御三方之元ニ進出御餅を取頂戴之仕直ニ右江開引取歌仙御間元之坐ニ而御餅紙
 ニ包懐中夫より
九曜之御間御椽側江且々参例之通御一門衆始列座之事
 御間入口にて御辞儀は無く、御向通より直に御三方の元に進み出御餅を取りこれを頂戴仕、直に右へ開き引取り、歌仙の御間元の坐にて御餅を紙
 に包み懐中し、夫より九曜の御間御椽側へ且々参り例の通り御一門衆始め列座の事

一右之通り御一門衆始九曜之御間江下り候ヘハ御上段御間取仕直しニ相成候併詰間へ引取之間合無之候事
 右の通り御一門衆始め九曜の御間へ下れば、御上段御間取仕直しに成り、併詰間へ引取の間合は無い事
一御出坐之時例之通平伏仕御一門衆御三方持出候得者手を揚候事
    但御向詰等例之通候事
 右御禮者御物頭列以上ニて候事
 御出坐の時例の通り平伏し、御一門衆御三方を持ち出せば、手を揚げる事
    但御向詰等例の通りの事
 右御禮は御物頭列以上の事
一夫より御次御礼相始同席者居続ニ座着御一門衆者御次御礼ニハ列座無之候尤退去之御間合無之候へハ居続ニ茂被致由之
 事

 夫より御次御礼が始り、同席は居続けに座着、御一門衆は御次御礼には列座無く、尤退去の御間合無ければ居続にも致され由の事
一夫より御出座之時諸事例之通候事
 付紙
    文化五年御在国之節不被遊御出座候付左之通相究候
 夫より御出座の時、諸事例の通りの事
 付紙  文化五年御在国の節、御出座遊ばされずに付、左の通り相究らること
一御一門衆始御家老御中老迄中柱之御間南之方江列座いたし謁御用人之上御三方一ツ九曜之御間御上段之三方より三畳目
 ニ差置候一人宛罷出
順之頂戴直ニ南之側之列座之所ニ直り直御三方二上より四畳目二閣候上御備頭御留守居大頭両人完
 罷出
御餅頂戴御椽頬之様退去各御三方取入候所ニ而御備頭御留守居大頭御礼口より罷出北之方ニ列座相成猶又御三宝五
 ツ上より差置候上
御役付着座以上五人宛繰出候頂戴御椽頬之様ニ退出之事
 御一門衆始御家老・御中老迄中柱の御間南之方へ列座いたし謁、御用人の上御三方一つ九曜の御間御上段の三方より三畳目に差置かれ、一人宛罷り
 出順に之を頂戴し、直に南の側の列座の所に直り、直御三方に上より四畳目に閣の上、御備頭・御留守居大頭両人あて罷り出、御餅頂戴御椽頬の様
 退去し、各御三方取入れたる所にて、御備頭・御留守居大頭御礼口より罷り出、北の方に列座に成り猶又御三宝五ツ上より差置かる上、御役付着座
 以上五人宛繰り出して頂戴し御椽頬の様に退出の事

 口之稜々付札 
  ○此儀本行之通候處近年不図脱劒ニ相成御向通より二畳目御礼席にて御辞儀仕方ニ相成候處以前茂本行之通候上玄猪
   ハ於公儀茂御辞儀なし二御餅頂戴有之よしニ付御年限中旧被仰付候節帯劒御辞儀なしニ相成度其節申談可奉伺候事
     文政三年玄猪御礼之節御在国之時分付紙之通奉窺之処矢張脱劒ニて御礼申上候様被仰出候間以後脱劒ニ而御禮
     申上候之方ニ申談其通相決候事
 口之稜々付札 
  ○此儀は本行の通りの處、近年図らずも脱劒に成り、御向通より二畳目御礼席にて御辞儀仕るように成りたる處、以前も本行の通りの上、玄猪
   は公儀においても御辞儀なしに御餅頂戴有るのよしに付、御年限中、旧仰付られたる節帯劒御辞儀なしに成り、其節申し談じ伺いたてまつる事
     文政三年玄猪御礼の節御在国の時分、付紙の通り窺たてまつる処矢張脱劒にて御礼申上げる様仰せ出され、以後脱劒にて御禮申上げる方に
     申し談じ其通りに決る事

 

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【参考】上記「御一門ニ三家より進上之御餅有之」 は下記のことに依り慣例化されたか

(前略)有吉将監立言は京都御屋敷御長屋ニ居候に、御出陳玄猪の日にて、立言餅を祝ひ立出ける時、妻心付、殿にも御祝可然と申て急なる折節故、器物も不有合、山折敷の有けるに乗せ持出候へは、藤孝君はや御馬に召れ候所に、玄猪の餅御祝被成候へと云て差上けれは、御出馬の折節、玄猪は能心付也と被仰馬上にて御祝、目出度御帰陳可被成と仰候、即御勝利なりけれは、御帰陳の上にても猶御賞美被成候、後々まて山折敷にて玄猪の餅差上候事は、段々御領知も重なり、旁以御吉例に被思召候に付、向後無懈怠差上候へとの御意有之候故と (綿考輯録第一巻p57)

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