津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■笑ってしまったこと

2021-09-27 09:33:26 | 歴史

 先日から「三斎(忠興)公」の書簡についていろいろふれたが、改めて私のコピーコレクションを眺め返している。
またWEB上で新しい情報はないかとググっていたら、九州国立博物館で収蔵の「書」の展観が始まるようだ。
         https://collection.kyuhaku.jp/gallery/12654.html
同館にはhttps://collection.kyuhaku.jp/gallery/13342.htmlといった寛永11年の書状、また天草島原の乱に関する書状https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/YP7?locale=jaもある。
これらは拝見できるのだろうか?
刀剣ワールドというサイトには、牧左馬允に宛てた書状がある。
又昨年に中津市で転換された書状が現在PDFで紹介されているが、これは寛永8年に「伽羅」の購入に関する書状であり興味深い。釈文もついていて勉強におおいに助かる。

他にもいろいろあるだろうと思い「三斎書簡」と検索をかけて、「画像」をクリックしたら結構あるではないか。
しかしよくよく見れば、なんと私のサイトからいくつかここに流れていた。思わず笑ってしまった。

それでも太陽コレクション所蔵の書状が数点見出せたし、その他にもいろいろ散見できた。
これらを大いに睨みつけながら、ご依頼のあった文書の解読に精を出したいと思っている。
9割方は解読できているのだが、あと一息の数文字に大いに難儀している。

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■丹後舊事記・巻之五から(15-了)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(四)

2021-09-27 07:09:56 | 史料

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又同國龜山の城主前田
玄以法印内主膳正も終に領地を召放されしかば兼て仰を蒙りたる北條左衛門父子龜山の城番を勤めける、
然れども去年忠志を勵し内應せし故に本領五萬石を其子主膳正に授られけるが慶長十三年六月利宗亂心し
て家潰れける也其故又家康公龜井武藏守滋矩を召玉ひ足下は因州鳥取へ馳向宮部兵部が居城を受取べしと
有に依而武州彼地へはせ趣く。爰に播州小鹽の城主赤松則祐十代の孫に赤松左衛門廣範 (但馬竹田城主軍記
の違なり)と云者兼て内府公へ志有けれ共催促に随ひ丹後國へ陣を出し其後領地へ歸りけるが龜井武藏守鳥
取へ發向するを聞てもし宮部が郎党ども城を守に於ては軍功を顯はし田邊の城を攻し罪を輔くべしとて鳥
取へ出馬せしが家人城を渡すに依て赤松本意なく思ひけるとなり、家康公曰く赤松は浮田が妹聟なれば其
科重しと評定有て彼を誅すべき由を龜井武藏守へ御下知有に依て十一月廿九日廣範鳥取に於て切腹す。遺
言によつて其家臣野村彌市郎主人の首を龜井に渡しける彼野村は赤松家にて人の知りたる者なるにより滋
矩食禄を授くべしと有けれども一向承引せざりけり。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回を以て「丹後舊事記」は終了いたしました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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