津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■糖尿病の余慶

2021-09-10 11:35:19 | 徒然

 昨日は薬をもらうために病院行き、30分ほど待って5分ほどで診療は終了といういつものパターンだが、先月の血液検査の結果がわずかながら好転しているとのご託宣である。
最近散歩の距離を延ばしたりして頑張っているから、次回の検査ではもう少しは数値が下がっているだろうと思っているのだが・・・

処がだ・・・
実はふた月ほど前、右足に違和感を感じてよくよく観察してみれば、なんと「水虫」を患っていた。
いつもきれいにしているつもりだが、毎日歩いて汗をかくせいだろうかと思って、薬局から薬(クリーム)を購入した。
四五回塗布していたらよくなったように思えたが、また一週間もすると出現するというくりかえしとなった。
そしてある時、足の裏に堅い塊が出来、初めは「魚の目」かと思ったがどうやらこれも「水虫」だったらしい。

こんな話を今朝の食事の後奥方に話したら、「糖尿のせい」だとばっさりやられてしまった。
「えっ」と思ってググってみると、まさにその通りである。糖尿病の「余慶」である。
これはまずいぞと改めて、血液検査の結果をしみじみ眺める。糖尿病予備軍ではなく正規軍の資格に値する数字である。

朝はトースト一枚とヨーグルトに奥方手作りのジャムを入れて食べているが、それぞれ半分にしようとか、昼の麺類は何に変えればよいのだろうとか、夜は「ごはん茶碗」を小さくして、野菜を多くとろうとかいろいろ考え始めた。
三時のお八つも我慢しようとか、みみっちい話だが「水虫」という「余慶」はなんとか取り払わなければならない。

散歩から帰り、足を洗い、水虫の薬を塗りながら、つくづく情けないと思うのである。ちなみに今日は4.6㌔を歩きましたが・・・。

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■地元図書館が収蔵していないという悲しい現実

2021-09-10 08:30:51 | 書籍・読書

 細川家の古い史料に「永源師壇紀年録」という本がある。
何気にこのワードで検索をしたら、熊本大学付属図書館のレファレンスに行き着いた。
主意は「細川家家記・綿考輯録に永源師壇紀年録がはたした影響」ということだろう。
私はその内容の一部を23回にわたり、このブログで紹介した。

永源師壇紀年録は細川家の先行史料だから、大いに関係しているだろうが、すべてではない事もあり、綿孝輯録の編者小野武次郎は故意なのか見落としたのか疑問を感ずる部分もある。
また、平野長看撰の『御家譜』もここから引用されていることが判る。
大変参考になるレファレンスであり、興味深く拝見した。
現在この資料は、今谷明監修により阿波郷土会が編集した、「正伝永源院蔵本永源師檀紀年録並付録」として2001年11月に出版されたが、今では大変貴重なものとなり手に入れることが出来ない状況にある。

                
レファレンスを読むと、実は熊本大学図書館は上記翻刻本を所蔵していないことが記されてあった。
先にもふれたが熊本県立図書館も所蔵していないという有様である。
希少本ではあるが、熊本を代表する二つの図書館が所蔵していないというのは、残念の極みである。
終活のなかで、私が所蔵する本については寄贈先を遺言しておこうかとバカなことを考えている。

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■丹後舊事記・巻之五から(2)「忠興室自害之事」

2021-09-10 06:23:19 | 史料

 關ヶ原軍記曰く大阪奉行の旗相談じて今般内府に随ひ東國に下向する大名の父母妻子を皆城中へ取入て
人質として其本人の様子次第に彼人質共の存亡を定めんと先細川越中守忠興の妻の方に使を立子供を連て
入城有べきよしを申達す、忠興が妻室竝老臣共曰く當屋敷は別て御城近所なれば御城内に有のも同敷なり
しばらく御免を蒙るべき旨再三申けるにいへども奉行等承引せず七月十七日の暮に數百人の軍兵を遣し異
議に及はゞ無體に城内へ連入らんと催促す、忠興の妻子留守居の河北石見稲富伊賀小笠原備前守入道勝齋
右三人の面々に向ひて宣ひけるは我女なりといへども武士の家に生れ猛將の妻女となり恣に敵に圍れ恥を
       注・1
晒さんより一向子供を差殺し自害せんと思ふなり然れども是まで汝等に對面せしことなければ此期に及ん
で對面は成まじ心静に自害して一左右すべし其の時に馳入て介錯すべしと有ければ何れも申しけるは旦
那在國御發足の節仰置れ候へば若此表にて俄の事あらば必妻子共に恥を與へぬやうにせよと宣ひしなり、
御痛しくは存じ候へとも潔く御自害なされ候へとも河北石見は廣間に出て何となく會釋してぞ居たりけ
る、斯て忠興の室は十歳に成る男子と八歳になる女子とを左右に抱へて凡そ男子の家に生るる身男子老若
隔なく節に臨んで死するをもつて本意とす汝等が外祖父惟任日向殿横逆を企主君を殺し奉る其天罰今子
孫に報いて横死に迫れり幼き心にも此理を合點し母を恨む事勿れといふや否や刺殺し其身も自害せられ
ければ侍女一人出て斯くと告る小笠原勝齋馳入り薙刀を以て介錯し戸疊などを死骸の上に積重ねて火を縣
けたり。石田が使はかくとはしらず早々出賀あれといへば河北石見が挨拶に女性の支度ははてぬ者にて候
今少し内猛火も上れば河北小笠原抜連れて敵を切伏せ追拂て悉く自害す侍女共煙の中へ飛入て殉死するは
哀れなり。此小笠原は元來室町將軍家の近臣成しが靈陽院義昭公没後勝齋も忠興の方は賓客となりてぞ居
たりけるが此節命を捨て忠興の恩を報じける然るに稲富伊賀守祐直は此期に及んで逐電し名を一て御茶を
夢と改西國を漂泊せし、此者無双の鐵砲の上手にて秀吉公かれが火術を世に傳へん事を思召或時忠興を召
下され其上名物の茶碗などを賜り汝稲富が罪を免じてやれ火術を傳へ度思ふとあれば嚴命重きにより詮な
く御受申せれければ則稲富を召て彼術を御家人等に鍛錬させ給ふなり、扨大阪奉行等忠興の室自害に驚き
如斯にては其本主憤り深く皆敵に成べし人質を城内へ取入る事は無用と定めける偏に忠興室の働とぞ。さ
て内室の前日に
    露 と な り 仇 な る 物 と 思 ひ け ん
        わ か 身 も 草 に お か ぬ 許 り を                 忠興と共に出陣
と云古歌を書付て宮仕する女房にへ給ふと聞も又哀れなり、或説に曰く此時嫡子與市郎は丹後田邊城
有るなり彼人の室は加州利長公の娘なり其場を遁れ出て利長公の許に蟄居せられ落居の後に忠興怒て武

士の家に生る者ならば節に臨んで命を惜しむ現在姑の死を見捨て遁る事のあるべきか離別せよといはれけ
れ共忠隆離れがたくひそかに音問せらるゝにより忠興いよ/\腹立ておのれが母を見捨てたるものに心を
通ず軟弱者不幸とやいはん惰弱とやいはん言語に絶たり早々忠隆を勘當し三男の内記忠利を以て家督に定
    越中守                休無
めらる後肥後守と號す。與市郎忠隆剃髪して名を立允と改め洛陽に閉居しけるが遙かに後寛永の頃三代將
                        注・2
軍家光公御上洛の時忠興夫婦の忠義をや思召されけん彼立允を召出し給ひ還俗させられ父の勘當をもゆる
さしめ玉ひ中務少輔と改名させらる、正保年中に弟肥後守忠利が領内に於て三萬石合力すべき由仰付られ
ける又彼内室は利長へ呼下して宰臣村井雲州が妻にせられけるとなり。

     注・1 ガラシャが男子・女子一人ずつを殺害したという事実は、細川家資料には見受けられない。
     注・2 後段三行目から二行目にかけての記述は、忠隆と四弟(細川有孝・立允、宇土細川家祖)の事が混同されている。

 

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