・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・攻軍程なく外郭に竹束を附寄本城を乘らんとする所
に兼て稲富伊賀が傳を受たる鐵砲の巧者矢狭間に控へしが矢頃能成程こそ有透間もあらず打出しければ寄
手の死骸數を知らず附寄たる竹束をば火矢を放つて焼立るにより敵兵城邊に忍び兼て引退くかゝりければ
城兵彌進色をなしける、又寄手の諸將の中に織田上野介川勝右衛門尉山名主殿頭毛利勘八郎杉原伯耆守小
出大和守山崎左馬允生駒左近等は内府公御とがめを憚り又玄旨の一筋なる覺悟を感じて玉なしの鐵砲を打
せて日を送り程を經て八月下旬越中守忠興幽齋へ飛脚を馳て岐阜の城落城したりと告る。玄旨此節儀とし
て三刀谷代下の輩を饗應有其席に於て玄旨申されけるは此度孝和籠城にて勲功を立られし事比類なし越中
守内府へ對し戰功あれば内府定て丹波國を越中守へ與へらるべし然らば彼國に於て上杉梅谷上林山家四ヶ
所凡一萬六千石孝和に揚申さんと有ければ孝和は這般の軍功を内府公へ申彼御家人となし申さんと居べき
を左なくして斯申さるゝは本意なき事と思ひさのみ執着せざりしを彼が顔色を見て是は玄旨が隠居の寸志
なり越中守計らひ有んと挨拶せらるゝなり。天下治りて後豊前にて一萬石孝和へ與へられければ孝和病気
と號して豊前國を退き龜井武蔵守常に懇切成によつて因州へ至り其領地に蟄居せしとかや。去る程に小野
木縫殿介諸將を招き此の城俄に落ちがたし然らば四方の通路をさへぎり味方堅固に陣せば程なく粮盡力盡
て終に軍いさおあるべし怠りなき様に下知有べしと各戒む、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
田邊城における細川方の戦いは、三刀谷孝和監物の働きが大きかったことは言うまでもない。
当事者である幽齋の評価は甚大であったようだが、忠興と孝和の関係はあまり詳らかでないような気がする。
一萬石も拝領しながらなぜ豊前を離れたのか、少々疑問がのこる。
島根県雲南市に「三刀谷史談会」があり、ここから「三刀谷三刀屋監物孝扶・佐方地頭」という小冊子が発刊されいる。
(手に入れたいと思うが現況希望がかなっていない)
しかしながらその内容はサイト「みやざこ郷土資料室」というものがあり、ここで粗方を知ることが出来る(感謝)
是によると、なぜ三刀谷が田邊城に駆け付けたかについては「八条宮智仁親王は、親交のあった安国寺恵瓊を介して三刀屋孝扶(孝和)に救援を命じた。
孝扶は一族郎党五十五騎を率いて田辺城に入った。」とある。細川家資料では伺えない記述である。
またその後の孝和の待遇その他については、「忠興は孝扶の武功に対して三万石を与えると言ったが、孝扶は(孝和)はこれを断った。」とある。
その結果としてここに記されるように又細川家資料に依るように一萬石となったのであろうか。その後は豊後をはなれて、京都の吉田山に住んだとされる。
また八条宮智仁親王の依頼により、後醍醐天皇の息女瓊子内親王が開山であり、八条宮の孫妹が住持である伯耆国の名刹安養寺(米子市)の警護をしたと伝わる。
のち江戸へ出て88歳で没しているが、葬られた場所は細川家も縁が深い東海寺である。因縁めいたものを感じるが如何であろうか。
尚 塙保己一著 三刀谷田辺記はこのサイトでもご紹介しているので、ご覧いただきたい。