津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■丹後舊事記・巻之五から(9)「田邊城攻の事」(五)

2021-09-17 17:03:16 | 史料

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・攻軍程なく外郭に竹束を附寄本城を乘らんとする所
に兼て稲富伊賀が傳を受たる鐵砲の巧者矢狭間に控へしが矢頃能成程こそ有透間もあらず打出しければ寄
手の死骸數を知らず附寄たる竹束をば火矢を放つて焼立るにより敵兵城邊に忍び兼て引退くかゝりければ
城兵彌進色をなしける、又寄手の諸將の中に織田上野介川勝右衛門尉山名主殿頭毛利勘八郎杉原伯耆守小
出大和守山崎左馬允生駒左近等は内府公御とがめを憚り又玄旨の一筋なる覺悟を感じて玉なしの鐵砲を打
せて日を送り程を經て八月下旬越中守忠興幽齋へ飛脚を馳て岐阜の城落城したりと告る。玄旨此節儀とし
て三刀谷代下の輩を饗應有其席に於て玄旨申されけるは此度孝和籠城にて勲功を立られし事比類なし越中
守内府へ對し戰功あれば内府定て丹波國を越中守へ與へらるべし然らば彼國に於て上杉梅谷上林山家四ヶ
所凡一萬六千石孝和に揚申さんと有ければ孝和は這般の軍功を内府公へ申彼御家人となし申さんと居べき
を左なくして斯申さるゝは本意なき事と思ひさのみ執着せざりしを彼が顔色を見て是は玄旨が隠居の寸志
なり越中守計らひ有んと挨拶せらるゝなり。天下治りて後豊前にて一萬石孝和へ與へられければ孝和病気
と號して豊前國を退き龜井武蔵守常に懇切成によつて因州へ至り其領地に蟄居せしとかや。去る程に小野
木縫殿介諸將を招き此の城俄に落ちがたし然らば四方の通路をさへぎり味方堅固に陣せば程なく粮盡力盡
て終に軍いさおあるべし怠りなき様に下知有べしと各戒む、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  田邊城における細川方の戦いは、三刀谷孝和監物の働きが大きかったことは言うまでもない。
  当事者である幽齋の評価は甚大であったようだが、忠興と孝和の関係はあまり詳らかでないような気がする。
  一萬石も拝領しながらなぜ豊前を離れたのか、少々疑問がのこる。
  島根県雲南市に「三刀谷史談会」があり、ここから「三刀谷三刀屋監物孝扶・佐方地頭」という小冊子が発刊されいる。
  (手に入れたいと思うが現況希望がかなっていない)
  しかしながらその内容はサイト「みやざこ郷土資料室」というものがあり、ここで粗方を知ることが出来る(感謝)
  是によると、なぜ三刀谷が田邊城に駆け付けたかについては「八条宮智仁親王は、親交のあった安国寺恵瓊を介して三刀屋孝扶(孝和)に救援を命じた。
  孝扶は一族郎党五十五騎を率いて田辺城に入った。」とある。細川家資料では伺えない記述である。
  またその後の孝和の待遇その他については、「忠興は孝扶の武功に対して三万石を与えると言ったが、孝扶は(孝和)はこれを断った。」とある。
  その結果としてここに記されるように又細川家資料に依るように一萬石となったのであろうか。その後は豊後をはなれて、京都の吉田山に住んだとされる。
  また八条宮智仁親王の依頼により、後醍醐天皇の息女瓊子内親王が開山であり、八条宮の孫妹が住持である伯耆国の名刹安養寺(米子市)の警護をしたと伝わる。

  のち江戸へ出て88歳で没しているが、葬られた場所は細川家も縁が深い東海寺である。因縁めいたものを感じるが如何であろうか。

  尚 塙保己一著 三刀谷田辺記はこのサイトでもご紹介しているので、ご覧いただきたい。

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■よしあしのよし

2021-09-17 06:46:40 | 徒然

   私の散歩コース自衛隊の西側道路の反対側には、一部高さ5m・長さ50mほどの土盛りの法面がある。
いろんな四季折々野生植物が生えて、管理も大変なようで度々草刈りが行われている。
つい先ごろ、小さな子を連れた女性が歩いておられたが、お子さんに「ススキ・ススキ」と教えて居られる。
「あ、ススキじゃないョ」と口に出かけたが、名前が出てこない。しばらくしてから「よしあしのよし」だと気が付いたが、出しゃばりはよそうと飲み込んだ。
厳密にいうと「つるよし」という類似種のものらしいが。地下茎を伸ばして繁殖するから、上記法面約50mほどは一面に背高くひろがっている。

「よし」でぐぐると「葦」という字が出てくるが、これは「あし」でもある。「あし」は「悪し」に通ずるから「よし=良し」にしたという嘘みたいな話を聞いたことがあるが、どうやら本当の話らしい。
つまり「よし=あし」である。

 実は、ススキによく似た植物に「荻」があるが、どうもこれが区別がつかない。
是がそうですよという対比できる実物に中々お目に掛れないからである。
昔はススキは熊本市内でもここかしこに見られたものだが、私が住んでいる地域でも最近では見かけることが出来ない。
ひょっとすると「荻」であったかもしれないが?
処がこの「つるよし」にはあちこちで出会う。それこそ昔ならこれを刈り取って屋根葺き材で重宝したのだろうが、現在では枯れて火でもつけられると大事になるから、その内にはまた刈り取られる運命であろう。
しかし、地下茎を掘り起こして処分しない限り毎年繰り返しで、余計なお金を必要とすることになる。もっとも法面上には広大な敷地が広がっているが、某飲料メーカーのものらしいから心配には及ばないようだ。

 阿蘇の大観峰から小国に至る道路沿いの原野が、今頃になると一面のススキに覆われる。
西日を受け風にそよぐ様は息をのむように綺麗である。
今一度あの景色を見てみたいと思うが、免許を返納した今、誠に不便である。

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有吉家文書解説「年中行事抜粋」(四十三)時習館定日之講釈御入之式

2021-09-17 06:42:11 | 有吉家文書

                  
                                                東門

           〇時習館定日之講釈御入之式

一御刻限一時前例之所へ罷出大御目附も一所之事
 御刻限の一時(2時間)前に例の所へ罷り出、大御目附も一所の事
一致出席候得者御奉行并御目附助教学校御目附詰間へ出方有之候事
    但御立後右同断
    御注進左之通
    一御供廻  一御殿御立
 出席いたせば御奉行并に御目附・助・教学校御目附詰間へ出方有る事
    但御立の後も右同断
    御注進は左の通り
    一御供廻  一御殿御立
一御供廻御注進ニて詰間江御使番参例之通相伺聴衆座ニ繰付候事
    但聴衆之坐例之通尤脱劒
 御供廻り御注進にて詰間へ御使番参る、例の通りに伺い聴く衆、座に繰付の事
    但聴衆の坐、例の通り尤も脱劒のこと
一東門より被為入御奉行已下御出迎例之通御中門外ニ罷出候事
 東門よりお入なされ、御奉行以下御出迎え例の通り御中門の外に罷出る事
一御立御注進を承講堂南西之御入側を通り御居間へ之方ニ罷出御次御椽を通り北之御敷出之例之所ニ罷出候事
 御立(ご出発)の御注進を承り、講堂南西の御入側を通り御居間への方に罷り出、御次御椽を通り北の御敷に出、例の所に罷り出る事
一御居間江被為入候上元之通退去講堂御入側を廻東之方平日出席之所ニ座着尤毎之座江柱一本丈下り北より横畳五枚目ニ
 御前之方を奉向座着之事
    但助教之坐者例之所ニ而候事
 御居間へお入りなされたる上、元の通りに退去講堂御入側を廻り東の方平日出席の所に座着、尤毎の座へ柱一本丈下り北より横畳五枚目に御前の方
 を向い座着の事

    但助教の坐は例の所の事
一上江者御控本有之候事
    但御入之節者同席之控本無之方ニ申談候事
 上(殿様)へは御控本が(準備)有る事
    但御入の節は同席(家老)の控本は無く、(事務?)方に申談ずる事
一講釈相済候得者御襖立候ニ付平伏同席ハ直ニ初之通御入側を通御次入口二枚御屏風之脇ニ控居候事
    但召出有之候ヘハ此所ニ而御用人より知らせ候尤御定例ニてハ無之
 講釈が済めば御襖が立てられるに付、平伏同席(家老)は直に初めの通り御入側を通り、御次入口二枚御屏風の脇に控居る事
    但召出しが有れば此所にて御用人より知らせらる、尤も御定例にては無し
付紙
一大御目附ハ堂中みし側御座所之御襖より一間南ニ下り二畳御入側後にて東向ニ座着
    但始末ニ御向詰有之
付紙
 大御目附は堂中みし側御座所の御襖より一間南に下り、二畳御入側の後にて東向に座着
    但始末に御向詰之あり
一御用人者西中之御入側二枚屏風之脇ニ座着之事
    但御用人出席御宜段御次番江差図有之御襖明候事
 御用人は西中の御入側二枚屏風の脇に座着の事
    但御用人出席御宜しき段御次番へ差図有り御襖を明ける事
一御備頭以下出役之面々は帯劒尤座着例之通候事
 御備頭以下出役の面々は帯劒のまま、尤座着は例の通りの事
一講師ハ脱劒御前之方を奉伺候事
 講師は脱劒のうえ、御前の方を伺いたてまつる事
一夫より御供廻り之御模様見計初之通御敷出罷出御下国後御入御立之節之通夫より詰間へ参退去之事
 夫より御供廻りの御模様見計らい、初めの通り御敷出罷出、御下国(参勤帰国)後御入御立の節の通り、夫より詰間へ参り退去の事
一御立跡より出勤奉伺御機嫌候事
    但刻限次第ニハ直ニ引取候儀も有之候事
 御立(おかえり)跡より出勤し、御機嫌伺いたてまつる事
    但刻限次第には直に引取ることも有る事
一講後ニ諸生講尺等被仰付候得ハ同席ハ西頬之座ニ廻り可申候其節ハ猶学監江懸合候事
 講後に諸生講釈等仰付られれば同席(家老)は西頬の座に廻り申し、其節は猶学監へ懸合う事

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