津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■有吉家文書解説「年中行事抜粋」(46)五節句御禮之式・2

2021-09-22 17:54:40 | 有吉家文書

  〇五節句御禮之式・2

一、夫より御小姓頭案内有之候得ハ御用番初之通罷出組外以下此着座まゝ一同ニ謁を受元之如入候得ハ右之面々御弓間
  御板椽之様ニ退去之事
     此所右ニ絵図委之
  夫より御小姓頭の案内が有れば御用番初めの通り罷り出、組外以下此着座まゝ一同に謁を受け元の如く入れば、右の面々御弓間御板椽の様に退
    去の事

     此所右ニ絵図委之
一、御礼相済候節ハ御小姓頭佐野御間まて罷出知せ有之候間夫より皆退出落間より多門之様ニ罷通り詰間江引取候
     但御弓之間御椽側ニハ御使番西向ニ列座いたし居其次引下り御目附も一人座着いたし居候得共無構罷通候之事
  御礼が済んだ節は御小姓頭佐野御間まて罷り出、知せ有れば夫より皆退出、落間より多門の様に罷り通り詰間へ引取る事
     但御弓の間御椽側には御使番西向に列座いたし居り、其次引下り御目附も一人座着いたし居れども構いなく罷り通る候事
一、御禮御物頭列已上出仕之事
  御禮は御物頭列以上出仕の事
一、三月四日・五月四日寄合者差止前日翌日之上巳端午之御礼ニ寄合候場も取来相済候依之御備頭御留守居大頭茂月並伺
  御機嫌茂右節句
ニ伺有之候事
     但文化十二年三月四日之寄合より本行之通りニ相極候事
  三月四日・五月四日寄合は差止め、前日翌日の上巳・端午の御礼に寄合の場も取来り済む事、之により御備頭・御留守居大頭も月並伺い、御機
    嫌も
右節句に伺有る事
     但文化十二年三月四日の寄合より本行の通りに極る事
一、九時を承御用聞退出之事五月五日者御備頭御留守居大頭江陣行営并兵粮積帳差通候手数左之通
  九つ時(12時)を承り御用聞退出の事、五月五日は御備頭・御留守居大頭へ陣行営并兵粮積帳差通すこと手数左の通り
一、御備備より陣行営三人一箱宛御留守居大頭より兵粮積之帳連名一箱差上候を御発駕前被遊御下候付其儘政府へ差置詰
  間御下国之年之五月五日御
禮後御用番坐ニて返候手渡いたし候付封印を不用差返候
  右御礼前相渡候儀も有之候前後之内イツレニても不苦候
  御備備より陣行営三人一箱宛御留守居大頭より兵粮積の帳連名一箱差上らるを御発駕前御下げあそばさるに付、其儘政府(奉行所)へ詰間に差
    置き、
御下国の年の五月五日御禮後御用番坐にて返す手渡いたすに付、封印を用いず差返すこと
    右御礼前相渡すことも有り、前後の内いずれにても苦しからずこと
一、同詰間江相見候様坊主を以申趣候得ハ出方有之候事
     但前後如何間違候哉封印之儘返達ニ相成候儀も有之候間左様之儀無之様入念可申事
  同詰間へ相見える様坊主を以て申し趣されれば出方有る事
     但前後如何の間違い哉、封印の儘返達に成ることも有れば、左様のことが無い様に入念に申すべき事
一、今日不参之衆ハ近日寄合之節相渡候併寛政十一年五月五日御備頭清水数馬病中ニて出仕無之候付御用番封印を用同役
  尾藤助次郎江相渡通
有之候様申達候儀も有之候事
  今日不参の衆は近日寄合の節相渡しのこと、併寛政十一年五月五日御備頭清水数馬病中にて出仕なきに付、御用番封印を用い同役尾藤助次郎へ
    相渡通之ある
様申達すことも有る事
一、転役之面々之箱わ直ニ留置申候
  転役の面々の箱は直に留置き申す事

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■丹後舊事記・巻之五から(12)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(一)

2021-09-22 06:48:18 | 先祖附

 羽柴越中守忠興は十五日の戰ひ終つて後領地丹後へ早走りを馳て關ヶ原の戰ひに内府公御勝利の由を告
られけれども老父幽齋田邊の城を退去有しと聞えければ忠興お本陣へ参りて申されけるは先日小野木縫殿
介近國の諸將を相かたらひ某しが領内に亂入仕りたる遺恨あれば福知の將を攻圍み小野木に切腹させ申べ
し其道筋なれば前田主膳が龜山の城をも攻落し申たしとありければ家康公仰けるは足下は此度の先鋒とし
て岐阜竝關ヶ原にて家中の輩骨を折たれば福知山へは別人を遣すべしと内々評定するといへ共申さるゝ處
も理あれば御望に任せ遺恨をはらし玉へと宣ふに依て越中守嫡子與市郎次男與五郎舎弟玄蕃頭を始として
二千八百餘人引ひ福知山へ發向せらる。爰に播州姫路の城主木下右衛門太夫延俊は關東へ志有けるが病氣
と穪して居城に籠りて世間の様子を伺はれけるが羽柴忠興丹後へ發向の聞え有ければ右衛門太夫手の者四
五百を召連れ忠興に出迎ひ丹州へ趣て相應の御忠節申したしと所望有により其旨を家康公へ申上られけ
れば則右衛門太夫を攻軍の内へ加へらる。               
  或説に谷出羽守藤掛三河守川勝右衛門尉等も忠興と一部に成て福知山を攻て丹後へ向へたる罪を補ひ
  たりといへり。

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