■細川家系竝軍記之事
細川兵部大輔藤原朝臣
足利一族讃岐守頼春八代孫兵部少輔元有孫播磨守元常男従四位下侍従行有近衛權少將兼兵部大輔藤孝號
室町之將軍光源院義輝公靈陽院義昭公二代仕就夫將軍義昭公三好亂避王江州竝越前流浪折節一色式部大
輔藤長禄 以後は義道なり藤長は誤なるべし 頼之大舘伊豫守晴氏曾我兵庫介祐乘林相儀而忠勤抽て其後織田
信長公に仕へ山州淀之城を攻て岩木主税介左道を討取り此恩賞に同國長岡の郷を賜る故に氏を長岡と改
む。田邊府志に曰く織田信長より當國平均の事を免し玉ふに依て兵部大輔藤孝天正六年初て與謝郡に入
猪岡の八幡に陣取すと云とも一色家の一族一國の障徼を固め譜代の諸將を置故に平均安からずして軍天
正六年より十年に至る。一色親子竝に幕下随身して村々に籠居する者を歸降して加佐郡八田の地を改め
田邊と名付け城郭を營み市街を開て居城とす普請天正十二年成就す。同書に曰く此所を田邊と云町地と
なす事は古へ八田村と云て民家二百餘軒の湊なり其頃の地頭に田邊小太夫と云人有此人仁義道を能辨へ
神を崇め佛を信じて民を勞る、圓隆寺の諸堂を建立し信仰有ける芳名諸將に勝れたればこの人の目出度
かりしに習ひ田邊と名付けるなり。
細川少將忠興朝臣
正親町天皇十年父藤孝に當國を譲り受て田邊城に移り又舎弟玄蕃頭興元を吉原峯山の城主とし松井四郎
兵衛 一説四郎右衛門 を神戸湊久美濱の城主とす竝に宮津市場の出張に父幽齋家士五郎左衛門を置き内府
萬欠
公之御取持に依て豊後國杵木城六石の闕下地成しを加増に下さる寄て家臣松井佐渡守有吉四郎右衛門兩
人を遣し代官とす本領十二萬石加増合十八萬石慶長四年なり翌慶長五年神祖之命に依て豊後國小倉へ移
封し采地卅九萬石餘父子二代丹後國主間廿三年なり。