「慶長五年八月廿二日竹ヶ鼻城攻之事」(ニ)
澤村才八は昨日より川越の奉行して今日の攻出へ迂参せしが城兵中嶋傳右衛門齋藤市右衛門伴吉左衛門が
控へたる追手の門前へ一番に組付我は羽柴越中守忠興が家來澤村才八といふ者なり雌雄を決すべしといひ
ければ中嶋齋藤伴の三人突出して暫く戰ひしが齋藤市右衛門は頬先より耳際まで突れて引退く、然れとも
中嶋傳右衛門伴吉左衛門澤村と暫く突合、勝負何れと分ちざるが澤村は兩人を相手の戰なれば七ヶ所迄疵
を蒙りて既に死に及ぶべきを才八は無双の勇士なれば中嶋が鑓を拂ひのけ組て七八間許り轉び高岸より
落る、吉左衛門續いて馳下りけれども兩人共組乍ら切岸の下へ落るに依而吉左衛門詮方なく投突にしける
に誤て中嶋が首元より脇腹へ眞直に突通る故澤村頓て起上り中嶋の引處首をとる、誠に此才八は天正の中
頃秀吉公加賀野井の城をせめ給ふ時忠興も一方の攻手なりけるが澤村才八夜中に追手の門先へ付き城兵
と一番に鑓を合せ其敵と組けるに澤村が日笠の指物虎落にかゝりて彼敵に組伏られしが敵の傍軍助に來り
才八と組敷たる見方を二鑓突て引取る澤村是に力を得て起上て其の首を取秀吉公の實檢に入ければ是則平
井駿河守と云て名有者なり骨折たりと御直に仰られて却而才八が戰功と成其の中に敵の助たるを幸ひ今度
共に兩度に及べり。斯て才八は中嶋が首を取て坂へ下りけるが數ヶ所疵を蒙りて歩行もしかじかならざ
る所に矢野六左衛門が僕龜之助澤村を肩にかけて忠興の中監に至て正則嘉明も人所に有つて彼首を實檢有
り兩將才八が働を褒美せられければ越中守彼が武功今に初めぬ事なりと挨拶せられけれ。去程に攻軍の
兵士我おとらじとせめらるゝ忠興の長子長岡與市郎忠隆大手の門際へ早々差て手の者を下知せられける
米田與七郎(後長岡監物と改む)十五歳にて初陣なるは早く追手の石垣に附く、其外篠山與七郎金守半助
久條三太夫森忠三郎(一色家部臣公庄村城主也)等傍輩に先達に塀下に附松井佐渡が嫡男式部(松井佐渡一
色家に随身して日置に籠居す初名四郎右衛門式部も後佐渡と號す)追手の門先へ早々進み疵を蒙りける初陣
高名の人なり。斯くて正則忠興高知嘉明等の軍士二三の曲輪を攻破り長鼻與市郎長岡昌心玄蕃頭鑓下の手
柄多し。
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一御小姓頭弐人一人ハ御中小姓頭之事もあり御奉行一人御用人二人御目附一人御勘定役壱人被仰付候事
但御勘定役ハ本行一同ニ被仰付候節ハ同席執筆ニ候へとも別ニ奉伺候節ハ御奉行執筆ニて候事
御小姓頭弐人一人は御中小姓の之事もあり、御奉行一人・御用人二人・御目附一人御勘定役壱人仰付られる事
但御勘定役は本行一同の仰せ付られたる節は、同席(家老)執筆のことだけれども別に伺いたてまつる節は御奉行執筆である事
一右御供しらへ被仰付候名前半切 自筆ニ相認奉伺候事
右御供しらへ仰せ付けられれば名前半切 自筆にて認め伺いたてまつる事
一前日呼出及達候事
前日呼出達に及ぶ事
一口之間中ノ間也御目附繰出ニて申渡候尤御目附列座無之候事
口の間・中の間也御目附繰出にて申渡す、尤御目附列座は無い事
一右申渡相済候得ハ御小姓頭付根取御参勤之御供調御用相済候様達可仕哉之書付御小姓頭より相伺候之間存寄無之旨直ニ
及差図候事
右申渡しが済めば御小姓頭付根取御参勤の御供調べの御用済む様達す可べく仕るかの書付、御小姓頭より伺い存寄り無い旨直に差図に及ぶ事
一御小姓組之内二人御参勤之御供帳役相勤候様達可仕哉之段御小姓頭より追而相伺候間右同断
但右者一人ハ御供点前一人ハ御留守残之人之由候事
御小姓組の内二人、御参勤の御供帳役相勤める様達す可く仕る哉の段、御小姓頭より追って伺うこと右同断
但右者一人は御供、点前一人は御留守残の人である事
一御近習御目附一人御参勤之節之御用しらへ輪番之人如例達可仕段従御用人追而以書附相窺候間右同断
但御次軽輩御供被仰付候名前覚書御用番江相達存寄無之旨差図之上右書附御用人より御奉行江達来候得共以来
者口達迄ニて書付ハ直ニ御奉行江可相達旨文化十二年九月志水隼太より口達有之候事
御近習御目附一人御参勤の節の御用しらへ輪番の人例のごとく達す可く仕ること、御用人より追って書附を以て窺い候間右同断
但御次軽輩御供仰付られ、名前覚書御用番へ相達し存じ寄り無き旨差図の上、右書附御用人より御奉行へ達し来れとも、以来口達迄にて書
付は直に御奉行へ達すべき旨、文化十二年九月志水隼太より口達有りの事