斯て細川越中守忠興は丹州龜山より十町許北の方馬城村に至り前田主膳正方へ使者を遣し城中を退去な
きに於ては忽攻落し申べしと案内せられける、是より先に幽齋は田邊の城退遁ある頃前田の宰相小池清左
衛門途中へ出向ひ主膳正兼てより内府へ志有らば龜山の城へ御立寄有て給るべしと有により玄旨も所望に
任せられけるが越中守馬城へ着陣の頃幽齋家井戸利跡を龜山に殘し三刀谷監物をめし連て馬堀村に至り子
息忠興に對面して前田主膳正田邊へ發向するといへども我らに内通有たる由幽齋物語有ければ忠興の曰く
然らば主膳正を是へ引申すべしと有に依て玄旨より其旨告られければ主膳正近臣十人許り召連て忠興の陣
へ參向有により幽齋竝に忠興の舎弟與重郎孝之同座にて主膳正利宗忠興に向て福地山の御先手をうけ玉は
り相應の志操をも顯申度と有ければ忠興承引有に依而主膳正は先達而龜山を出馬有其後忠興は福知山に至
り長田野より二分に蛇が鼻より江戸坂へ取りかゝる兵城蛇が鼻へ統卒を出し忠興の先鋒をなやますに依て
竹束を植て城に迫る夜に入ければ忠興の兵士中津海彌兵衛といふ者越中守の下知を受け城邊に至り蛇ヶ鼻
の要害を迫りけるが首一ッ取て馳せ歸る忠興彼が木柵を越て敵に近付剰へ張番の者を討し事を褒美せらる
かの彌兵衛は若州大舘軍中津海村の農夫成が早道輕案人の及ばぬ者成とて越中守扶持し玉ふ或時忠興宮津
の城にて猿樂興行の時田邊へ早道の手柄有爰に略す
このような著作がある事を知らなかった。「肥後藩の御山支配役・木原家」の記録とある。
少々興味がわいて応札してみようと思うが、少々高い。少々マニアックな内容だから応札する人もなかろうと観察中である。