「慶長五年八月廿二日竹ヶ鼻城攻之事」(一)
八月廿二日卯刻濃州竹ヶ鼻城責太平記同軍記に曰く先陣は福島二陣は長岡次に京極黒田加藤藤堂井伊本
多等なり又竹ヶ鼻の城主杉山五郎右衛門毛利掃部岐阜より加勢梶川三十郎花村半右衛門尾越川の向に芝居
を築柵を振り弓鐵砲降當句のとし打立たり殊更此所へ砂入にして築上たる堤なれば馬入足場悪敷進みがた
記ゆへ東軍川下へさがり加賀野口村の邊より乘越けり。杉浦毛利梶川花村命をなげうつて戰ひけれども防
ぐべき術や捨りけん、竹ヶ鼻へ引取て本丸には杉浦、二の丸には毛利梶川花村楯籠るといへども小勢の
事なれば攻亡すとても安けれども福島毛利と親敷故降参有て然るべしと御前の義は聊気遣ひあるべからず
能に取なかさん、殊に本領異議有る間敷よし悉く云入るに依而無事を相調べて城を明渡され然るべしと色
々に進めけれども杉浦曾て承引せず義心金鐵の如くにして辰の刻の初めより申の刻の終迄入替々々相戰ふ
に遂に城に火をかけ杉浦自害せしかば殘る軍兵悉く殉死す、中にも主人の死骸を取かこみ七人自害とげに
けり。主從の最後の體敵味方感歎せしとなり。
永井増補宮津府志曰く關ヶ原合戰手柄の人の事は慶長五年八月廿二日濃州岐阜の城攻第一なり。此軍羽
柴左衛門正則羽柴越中守忠興同玄蕃頭興元加藤左馬介嘉明此人々本城の追手へ向ひけるが瑞立寺の砦没落
しければ惣構に攻かゝる、先京町口津田藤十郎を以て羽柴忠興手の者に馳かゝるべしと下知せられければ
舎弟玄蕃頭興元手勢を勵して突ける軍士爭進む中にも沼田幸兵衛(此人一色の家士なりけるが長岡に随ひ後
に長岡勘解由と號關ヶ原軍記に沼田小兵衛とあり)一番に鑓を合わせる、二番に荒木佐助(一色の頃新治の城主)
此所に於て鑓下の攻列なり、其外忠興の軍士牧左馬進(一色の頃大井の城主なり左近進の嫡男といふ)
香山勝右衛門(熊野の日村岳の城主後改隼人と號す)西郡大炊・岡村半左衛門(此人宇川庄上野城主にて一色の
臣なり)中嶋左近・中瀬兵衛(一色家の部臣新治の城主)等首を取越兵坂下の戰に利を失ひ近手の七曲やまへ引
退く、此高名の人々敵も味方も一統にうらやまぬ者はなかりける、斯て城兵京町口の固めの大將軍津田藤
三郎元房は今度も馬を乘廻して士卒を下知する忠興の軍士澤田次郎助(玄蕃頭軍士なり)馬を馳よせ戰ひ
けるが双方打物の達者と聞えし勇士なれば半時許の戰ひ何れとも勝負付かざりけり、兩士太刀を抜捨て馬
上に組て落けるが七八度許りもはね返しけるを津田遂に澤田を取て押へける澤田は下になりながら藤三郎
をしたゝかに突けれども津田三刀許り突ながら澤田が首を取りてそれを若原九右衛門に持せ其身は馬にて
七曲山へ引退く、長岡興元是を見て鑓を以て突たる手負の主人を討せしとて津田が兵士等四人取て歸し興
元をさゝへければ津田やう/\からき場を七曲山へ遁退ける(此頃興元は吉原庄峯山の城主なり澤田次郎助は興元の老
臣出羽守が子なり)又柳田五郎助・野尻隠岐(一色家の部將野間庄の城主)田中助八(河邊周枳の間木積山籠城
の人)有吉與太郎(後改長岡内膳と號有吉玄蕃子なり)十八にて初陣成が一の木戸を押込組打の高名す。
つづく