津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家大火忠死誉

2021-09-25 09:33:46 | オークション

       

 明治22年に制作されたという三枚摺りの浮世絵「細川家大火忠死誉」がヤフオクに登場している。
三枚が状態よく一緒に出品されるのは珍しいのではないか。
この主題は「細川の血達磨」とか「肥後の血達磨」とかよばれ、歌舞伎や講談で知られている。
歌舞伎役者絵として「蔦模様血染御書」があるが、初代左団次の役者絵である。

この話はいくつかの事件をつなぎ合わせて、面白おかしく作り上げられた創作ものであろう。
つまり主人公大川友右衛門印南数馬の衆道の関係と、それらを御咎めを受けることがないことに恩義に感じた友右衛門が、細川邸の火事の際に床の間にある大事な達磨の御軸を守ろうと、自らの腹をきり是に収めて守り切ったという話である。
現在ではこのように芸術文化の世界でその一角に確実な地歩を占めている。

 過去にも何度かこのことに触れている。
    覚え-岡倉天心「茶の本」より  「肥後の血達磨」異説

ここにこの話の出典とする二冊の本をご紹介しておくが、この記事を書くにあたり岡倉天心の「茶の本」を読み返しているが該当記事が出てこない。まさか嘘は書いてはいまいから、よくよく過去の記事を読んでみたら訳者が異なる浅野晃訳の「茶の本」であった。天心の「茶の本」は新渡戸稲造の「武士道」とともに、日本の文化や道徳といったものを西欧に紹介した高邁な思想史だと私は思っているが、あまりにも下世話な細川家の「血達磨」の話が登場しているとはいまだに信じられないが、目を通したのであろうその訳本は現在私の本棚には見当たらない。
ともあれ自分の書いたものを信じておきたい。

                 

 ちなみに山田美妙の「新体詩」に「大川友右衛門」があることをご紹介しておきたい。(第九)をクリックされたし。

 

   

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■丹後舊事記・巻之五から(14)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(三)

2021-09-25 06:27:53 | 史料

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・去程に福知山の城兵蛇ヶ鼻を引取て城に籠りければ
攻軍城を責圍む城主小野木縫殿介は先月丹後を引拂ひ其後大阪へ趣き輝元長盛の下知を受て濃州へ馳せ下
らんとする所に關ヶ原合戰を終て程無く細川越中守福知山へ押寄ると聞えしかば合戰終って兵我城攻と聞
え安からずと小野木は大阪を發足して領所へ歸りける敵はや城を圍み城内へ入べき様なかりしかば重勝才
覺有物にて從者をば民家に隠して其身は裂織という賤の衣服を身に着して篠包に魚の入れたるを被て敵陣
を通り終に城中へ入りしなり、翌日忠興老臣の面々集めて宣ひけるは城の形成を見計るに昨日に替る所有
若近國より援兵するか然らずは城主小野木が外より紛れ入たるならん何にもせよ審盡を以て効をたて然る
べしとて頓て城中へ使者を遣し我等此地へ馳せ向ひたるは國の方角に從ふ定法なり貴方先日諸將をかたら
ひ老父を攻められし遺恨をはらすべき爲にはあらず然らば我等が異見する所を不疑承引せらるべし關ヶ原
の合戰敗れて後は遠國は知らず上方に於ては財を張る者一人もなし足下たとひ武略に長じ堅固に守城せら
るゝ共功更に有るべからず急ぎ城を退出し罪科を陳謝せらるべし内府も情有人なれば必宥免有べしと兎角
御邊之事は我等に任せ玉ふべしと有により小野木則剃髪して城を渡し其邊の民家へ入ければ忠興檢使を遣
し其方罪科遁れがたし切腹すべしと有ければ重勝近習の輩に向つて曰く先年北條氏攻ておめ/\城を明
渡し忽首を刎られし時氏康ならば尋常に城を守て討死せらるべしに父に劣りたる弱將かなと爪はじきして
笑ひつるが前車の覆るを後車の戒ともなさで今又城を明渡し坊主首を忠興に気らるゝ事末代の嘲りならん
然れども始終衛城して寄手を防ぎ戰ふに於ては日頃情をかけたりし手の者其城を枕にせんこと疑なし是憐
むべき所なりさあらば誤を飾る様なれ共昨日城を出でたる時老臣を召よせ申聞ける趣もあれば我等切腹す
る共忠興に對して恨をなさず急ぎ退散すべきよし汝等に申聞よとて切腹せしとかや、

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