今年の夏を象徴するのに「沸騰」と言うワードが登場した。
本当に暑くて爺様は外出を控え、電気の使用量が上がるのも仕方がないなと考えながら、ほぼ一日中クーラーを付けて過ごしている。
温暖化が沸騰化に替って世界中が異常気象の中にあって、不可思議な気象現象が発生し、北京の大水害などもその一つの例であろう。
近世初頭の記録には「怪しからぬ暑さ」と言う言葉があった。
日出藩主・木下延俊の慶長十八年日次記である。残念ながらこの一年のみであるが、慶長十八年という時代まで遡った貴重な史料である。
木下延俊は豊臣秀吉の妻・高台院の甥(兄・木下家定の三男)であり、細川忠興の女婿(女・多羅)である。
それ故細川家に関わる消息も散見される。
その多羅の長姉に「千」があり、この人が延俊の叔母(木下氏)に当たると思われる長慶院と言う人に宛てた書状が残されている。
その冒頭に「けしからぬあつさにて候」とある。この書状は延俊が病の中「ふんご(豊後・日出)くたり候ハんとの由、・・・・と用(土用)の中ハむようにて候。御とゝめ候てよく候べく候。」と、帰国を中止するように勧告している。
この「日次記」は、六月に入ると連日の如く「天キよく候也」の書き出しで始まっている。四日は「土用」とあるから現代では7月下旬という感じである。
そんな中の十六日には特に「今日程あつき事ハなく候」とあり、「台徳院(徳川秀忠)殿御実紀」を引用して「慶長十八年六月廿日条」に「このごろ連日炎暑。近年まれなるところとぞ聞こえし」とある。
雨が降るのは月が替わって七月の七日あたりで、これとて連日とはいかないなか、雨が降ると縁側に出て「お涼み」とある。
連日の如く「天キよく候也」がつづき、慶長十八年の江戸の暑さが伺える。
<C194551>【真作】 長岡監物(是容) 肉筆和歌短冊「閑居燈」江戸時代後期の武士 肥後熊本藩家老 実学党中心人物
道越よ耳照須光もあらぬ身の
飛とりかゝくる宿のともし火 是容
道を夜(世)に照らす光もあらぬ身の
一人かゝくる宿のともし火
このように読み下してみたがどうだろう。三卿家老・米田是容の歌であるが閑居燈とある。
歌の内容から察するに、筆頭家老・松井氏らの学校党との抗争に敗れて弘化4年(1847)家老職をも辞し、閑居した身の寂しさを詠ったものではないかと考えたが如何だろう。
「実学という道を探求してきたが、その道は閉ざされて光の当たらぬ身となってしまった。一人我が家に掲げる明かりの下で寂しい事だ」と意訳してみた。是容の無念さが伺える素晴らしい史料ではないか。
それから6年後の嘉永6年(1853)、細川藩の相州浦賀の警備にあたり再び活躍の場が到来した。
一方、実学党の活動は安政2(1855)年、開国論に転じた小楠と決別し、以後は実学党坪井派を率いた。
* 名は是容(コレカタ)、監物と称す、本姓米田長岡の称号を許され、世々家老職たり。
禄一万五千石、年二十、家を継ぎ軍師を兼ぬ。深く累代勲舊の誼を感じて報復の志
を存するも、同列に阻まれて果たす事を得ず、尋いで文武総裁となりて教学を明にし、
人材を育し藩政に貢献する所あらんとす。監物程朱の学を信じ平生為す所躬行を先
にし、専ら実学に従事し、且心身の鍛練に努め、厳冬烈暑と雖も其力行自勵人の耐え
ざる所なり。嘉永癸丑米艦浦賀に来る、幕府予め藩公をして浦賀を管せしむ。
藩公斎護特に命じて召す、監物常に外患の不測を以て憂となす、命を聞き直に江戸に
至る。名望都下を動かす。(中略)中年閑退して道徳円熟し、一門之に化す、又家臣の
為に学舎を設け必由堂と名付く。
安政六年八月十日歿す、年四十七。坪井見性寺に葬る。後年贈正四位。
* 実学党坪井派(明徳派-道徳の理論的究明)の首領として、実学党沼山津派(新民派
-庶民のための政治)の横井小楠に対した。