熊本大地震で倒壊してペシャンコになった「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は随分以前に完成していたが、なかなかお披露目に至らなかったが、ようやく9月1日より3日間の予定でオープンイベントが催される。
国際コンベンション協会のサイトに詳しいので、ご覧いただきたい。
建設地を巡って紆余曲折があったが、まずは見事に復元されたことを喜びたい。
熊本大地震で倒壊してペシャンコになった「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は随分以前に完成していたが、なかなかお披露目に至らなかったが、ようやく9月1日より3日間の予定でオープンイベントが催される。
国際コンベンション協会のサイトに詳しいので、ご覧いただきたい。
建設地を巡って紆余曲折があったが、まずは見事に復元されたことを喜びたい。
さきの熊本史談会8月例会での演題「菊池・隈府の歴史年表」は、講師の坂本博・栄子ご夫妻の軽妙なお話しで大変有意義な時間を過ごすことが出来た。来年1月にはその後半「菊池の西南の役ー西郷坂の戦い」をご講演いただくが、こちらも楽しみに待ちたいと思う。
A3判21枚にも及ぶ資料の中に、氏が所蔵されているという明治4年撮影のガラス写真の「徳永九郎」が紹介された。
この人は嘉永元年(1848)年3月2日生まれで菊池市隈府立町在住の士族であり、この写真は明治4年(1871)5月27日、長崎で撮影されたものだという。当時23歳の若武者である。
熊本藩の「凌雲丸」が難船修理のために大村湾に入港した際、撮影されたものだろうとの事であった。
当日、四代末のご子孫も会場にビジターとしてご参加いただいていたので、ご挨拶をし、坂本氏にも御承引いただいてこの写真をここにご紹介している。
これだけの史料が揃っているから、人物の特定は簡単だろうとたかをくくって、今日図書館に出かけ有禄士族基本帳などで調べるが、当人のデータが見つからない。
有禄士族基本帳には14等人の徳永姓の方がおられるが、菊池在住は1家しかない。
「従前六等官山支配役兼文藝指南方」徳永隆禮(舊名・禮八)なる人物である。明治三年五月七日の「進席増禄辭令寫」が合わせて記載されており、その記述によると「御奉公五十年に及び(中略)菊池郡宰之支配役」を仰せ付けられている。
そして明治四年辛未三月廿九日、この人の長男隆業(舊名・孫讀)が家督相続していることが判る。
それから隠居した隆禮は明治六年十月廿五日に病死している。
菊池の徳永家は有禄士族基本帳ではこの一家のみであり、写真の九郎は隆業の弟なのではなかろうか?
「除籍謄本」などから確認できるのではなかろうか?
ちなみに隆業の住所は「第十六大區十小區二十八番宅地士族」との記載がある。
これには頭を抱え込んでしまった。上記住所は天草郡の久玉・魚貫・亀ノ浦・早ノ浦の四村である。
現在の天草市牛深周辺の町々だが・・・私は頭がこんがらかって来た