先に■楽天理を書いた中で、勝海舟が徳川慶喜に晩年の過ごし方を諭していた。
幕府領800万石は没収され、徳川家は田安家から家達が入って16代を継承した。静岡藩70万石の当主としてである。
慶喜は当主・家達の厄介義養父として過ごさずを得なかったが、公爵になってようやく自前の収入を得ることになった。
家達は慶喜を徳川家を大名並みの静岡藩主になさしめた張本人として嫌ったらしい。
慶喜の子慶久が徳川慶喜家の2代目であり、その娘・喜久子姫が昭和天皇の三弟・高松宮妃となられた。言葉が適当ではないかもしれないが、いわばかっての明治新政府の宿敵ともいうべき慶喜の血筋である。
しかし、昭和天皇の皇后や、次弟・秩父宮妃の御実家も言ってみれば、同様である。
香淳皇后の祖父は、久邇宮(中川宮)朝彦王である。公武合体派の首領的存在で「一会桑」と共に一時期をリードしたが、晩年は備前に流されるなど香淳皇后にとっては辛い想いがお有りであったろうと推察される。
自らの結婚に際しても「宮中重大事件」で辛い目にもお会いになっているが、結婚後には弟宮のお妃選びに積極的に関られ、維新史最大の賊軍となった会津の松平容保の孫娘・節子姫(勢津子妃)を秩父宮妃として推挙された。
三笠宮妃を除き、このように香淳皇后・秩父宮妃・高松宮妃は維新期に薩長に対抗した家柄のご出身である。
偶然と言えばそうかもしれないが、久邇宮家・会津松平家・徳川慶喜家の復権を印象付けている。