津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(3)

2023-08-28 06:00:00 | 書籍・読書

 まずは蘆花先生の間違いと指摘しているのではないことを申し上げておく。

竹崎律次郎が徳富一敬と共に、肥後の維新の為に生業の方は養子の熊太に任せっきりで、熊太は「ぞびき出せ」と怒鳴りつけたという。
「ぞびき出す」とは方言で「引きずり出す」の意だが、強い叱責の感情が入った言葉である。
この熊太が居てこその肥後の維新が到来したのかもしれない。
熊太は、竹崎家が横島新地に入ったころ出入りしており、お眼鏡にかなった人物らしい。
「新野尾(にいのを)」という珍しい名字で玉名郡中土村(現玉名市岱明町中土)の庄屋の嫡男であった。
ひとり娘節子(19歳)に良い婿をと探していた律次郎・順子夫妻にとって「降って來たような此眞面目に働く若者」を逃がしてはならじと頼み込み24歳のこの熊太を迎え入れた。
その「新野尾家」について蘆花は次のように記している。

  「新野尾家は清正以来玉名郡中土村の庄屋でした。清正が新地築きに朝朝(ママ)熊本から四里もや
   って来ます。「庄屋は未だ起きぬか?」と寝込みを襲ふたものです。「はい、もうとっくに仕事場
   に参りました」と家人に答へさせて、そつと裏口から大急ぎで庄屋は出かけたりしました

 この清正に関わる逸話が臭い。中土村にほど近い高道(旧・岱明町)に荒木家という惣庄屋を勤めた御宅がある。そのご子孫の荒木氏は熊本史談会の会員であられたが、同じ会員で「平成肥後国誌」の編者で大変ご懇意にしていただいた高田泰史(廉一)先生の従兄弟にあたる方で、10年ほど前、一度ご一緒させていただき、高道の広大なお屋敷をお尋ねしたことがある。
この荒木家に伝わる話が全く一緒である。当時のご当主からお聞きした話だから間違いはない。
昔ながらの古い屋敷に住んでおられたが、不便で冬は寒くてとは奥様のお話しであった。
敷地内の南北の角地に何故か、三宅藤兵衛の二男家の4代・権兵衛一族のお墓が有り10基ほどの墓石が残されている。
    三宅権兵衛のお墓 ■三宅家の事

  ■ 三宅新十郎(南東50-2) 三宅藤兵衛二男家(700石)
     出雲
     弥平次(明智左馬之助)
     藤兵衛
    1、新兵衛
    2、新兵衛
    3、九郎兵衛(養子 三宅加右衛門子)  
    4、権兵衛・重房(初・平八郎)700石
                 正徳元年 ~ 享保元年 中小姓頭
                 享保元年 ~ 享保九年 留守居番頭
                 享保九年 ~ 享保十四年 番頭

ご当主も高田Drもなぜ三宅家のお墓が、荒木家の屋敷内に在るのかその由来については詳しくは御存知なく、謎はそのままである。
ご当主は既に亡く、ご夫人は娘さんの許に引っ越されたと聞いているから、このお墓を拝見するのはもう出来ないかもしれない。

ひょっとしたら、蘆花先生の思い過ごしではないのかと思ったりしているが、真偽のほどは判らない。

コメント
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