津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本能寺からお玉が池へ ~その⑯~ 

2023-08-02 06:46:36 | 歴史

 この資料をお贈りいただく東京調布深大寺の吉祥寺病院のDr西岡先生は明智光秀のご子孫である。
その先生がお勤めの病院に小木貞孝先生も長く務められた。著名な作家・加賀乙彦氏である。
令和5年1月12日天に召された。1987年洗礼を受けられたクリスチャンである。そんな小木先生を悼みながらの書き出しです。

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  吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:7:20日発行 第72号            
     本能寺からお玉が池へ ~その⑯~              医局・西岡  曉


 何処の野山も浦も里も、万緑に輝く夏になりました。夏はまた、日が長いので夕焼けの季節でもあります。ですが、正岡子規や高浜虚子
の時代にはまだ(?)夕焼けの季語はありませんでした。それが今では俳句雑誌「ホトトギス」同人が夕焼けを季語に詠む時代です。

      素晴らしき夕焼けよ 飛んでゆく時間  (嶋田摩耶子)

 どれ程「素晴らしき」「時間」を刻んだとしても、佳き日々はあっというまに「飛んでゆ」き、どんな花も人も必ず「散りぬべき時」
を迎えます。
 年明けに我等が(?)加賀乙彦こと小木貞孝先生が帰天されて早半年になりましょうか?小木先生は「加賀乙彦自伝」でこう語られてい
ます。「私の洗礼名はルカで、・・・私がルカを選んだのは、福音書を書いたルカは医者で、私は作家専業となってからも、ずっと医者を続け
る気持ちがあったからです。・・・当時もいまも、ある私立精神病院で定期的に患者を診ています。」
 そう、小木先生が「ずっと医者を続け」られた「私立精神病院」こそ、ここ吉祥寺病院なのでした。
そこで、この夏「じんだい」は、小木先生を偲ぶ特集を組んでいます。ですから、こちらでも小木先生に関わるお話を致しましょう。
小木先生が1929年(昭和4年)に誕生した処は、お母様の実家の野上病院(現存しません。@港区三田2丁目)ですが、小木家の住まいは旧加賀藩主・前田家の屋敷内(こちらは別邸@新宿区歌舞伎町2丁目で、お父様の生家は本邸⦅ご存知かもしれませんが、その時代前田家本邸は東大本郷キャンパス内。1930年に現在に都立駒場公園に移転⦆)でした。
お祖父さまの代まで小木家は代々加賀藩士だったからです。ですから小木先生は、学生時代から東大病院時代の15年の間毎日のように(西久保から本郷へと)二つの前田屋敷(跡知ではありますが、)を行き来されていたことになります。
その15年の間先生は、何時も赤門から東大構内に入られました。その頃鉄門はまだ(?)再建されていませんから(2006年再建)、通りたくても通れません。尤も鉄門は、先生が通学通勤に利用されていた都電の通りからは大分離れたいますから、再建されていたとしてもやはり通ることはなかったでしょう。
 ご存じないかもしれませんが、「都電(=東京都電の略称)は、1903年(明治36年)開業の私鉄「東京電気鉄道」を前身とする都営の路面電車で、今は荒川線一か所しかありませんせしたが、1960年代までは都民の足として都区内中(約80路線)を走り回っていました。「加賀乙彦自伝」によれば、「新宿の自宅から本郷の東大まで都電で通っていました。いまの歌舞伎町2丁目ー昔の西大久保ーから13番線の万世橋行きで松住町まで行き、そこで19番線の駒込行きの電車に乗り換え、赤門前で降りる。」のだそうです。「松住町」(現・千代田区外神田2丁目)は、神田川西岸の町で、そこから1㎞ほど下流には「和泉橋」があります。和泉橋の北側は「お玉ヶ池種痘所」が再建された処であり、幕府の直轄になって種痘所が移転した藤堂藩上屋敷があった場所です。その対岸(南岸)には大昔、「お玉ヶ池」が水を湛えていました。

 小木先生が卒業された東京大学医学部は、「お玉ヶ池種痘所」として「創立」された医学校です。(ここま迄何度も述べたように)「・・・種痘所は東京大学医学部のはじめにあたる」(「お玉ヶ池種痘所記念碑」)のです。東大になってからも医学部は、お玉ヶ池種痘所の正門に因んで「鉄門」と呼ばれました。
 大学を卒業した先生が入局(当時「臨床研修制度」はなかったので、卒後すぐ各科医局に入局した。)した東大精神科の教授は内村祐之(1897~1980)でしたが、先代教授は三宅鑛一(=御玉ヶ池種痘所発起人・三宅艮斎の孫
)です。また先生の祖父の先妻(なので、血縁はありません。)の妹は、[10]に登場した(「味の素」の素?)池田菊苗の妻で、その父(なので、系図上の曽祖父)・岡田棣(なろう・1836~1807)は、加賀藩士(高岡町奉行、軍艦奉行・大参事)で1803年(文久3年)に藩校・壮猶館(そうゆうかん)に入学した人です。[10]で述べたように、三宅秀は1867年(慶應3年)にその壮猶館の翻訳係に就きました。(岡田様はその頃分館奉行でしたので、三宅秀との出会いななさそうです。)小説「帰らざる夏」は、「三島批判」であると「同時に追悼」でもあるそうですが、三島由紀夫の曽祖父は、壮猶館の漢学教授・橋健堂です。

              
                                         壮猶館
                                  出典 いしかわの文化

 小木先生は、芭蕉さんの愛読者でもあります。「わたしの芭蕉」という著書で、「芭蕉は、美しい日本語の世界に遊ぶ楽しみを私に教えてくれた。」と書かれています。先生自身の最期の言葉は判りませんが、この本の中で芭蕉さんの最期の句
   旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る (芭蕉)

 について、こう書かれています。
「一度読んだら忘れられぬ温とか寒とが、この句に充満し、不思議な力を発散している作品である。芭蕉の死後も、いつまでも忘れられぬ、永遠に生きる句である。」
 小木先生はまた、ご自身がクリスチャンあるためか「宣告」、「高山右近」、「殉教者」等クリスチャンが主人公の小説を幾つも書かれています。そんな先生は、最後に(?)ガラシャの小説を書く意欲を示しておられました。加賀乙彦の「ガラシャ」が書かれていれば、きっと「永遠に生きる」作品になったことでしょう。

[19] 一橋、本郷
 さてここからは、前回の続きです。
徳川幕府の洋学所「蕃書調所」は、1862年(文久2年)に「洋書調所」となって護持院ヶ原に移転しました。その頃の護持院ヶ原は、福沢諭吉によれば「大きな松の樹などが生繁って居る恐ろしい淋しい処で、追剥でも出そうな処だ」(「福翁自伝」)つたようです。
「洋書調所」はその後「開成所」、明治維新後は「開成学校」、「東京開成学校」と名を変え、1877年に「東京大学」が開学すると、その法・理・文三学部に発展しました。洋書調所がイギリスに発注した洋書の納入時に幕府(は既に崩壊していたので)には資金がなく、外国方・田辺太一に相談された三宅艮斎の計らいで(三宅を介して、非常に欲しがっていた福澤諭吉の先を越す形で)加賀藩が購入することになりました。
 元「護持院ヶ原」の「東京開成学校」の跡地(現・学士会館@千代田区神田錦町3丁目)に「我が国の大学発祥地」碑が立っていますので、読んでみましょう。
「当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。・・・明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当時は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以て構成され、・・・法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。・・・この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。」
 この碑文にある1877年4月に「東京大学がそうりつされた。」と言うのは、正確には医学部以外の三学部(現在の東大は、医学部を含めると10学部あります。)についてです。東大医学部の創立は8先ほども述べたように、)「お玉ヶ池種痘所」の創立だったのですから、東京大学医学部の創立は、(多学部より9年早い)「1858年5月7日」と「定め」られているのです。
 東大医学部は、江戸時代の創立時には「お玉ヶ池種痘所」で、通称「鉄門」と呼ばれていました。明治維新後お玉が池種痘所は、医学校兼病院、大学東校、東京医学校、と何度か名前を変えて、「東京大学医学部」になったのですが、その20年の間も通称「鉄門」は変わりませんでしたし、そればかりか、今日もなお「鉄門」と呼ばれています。(そのことも、昨年[9]で述べました。
 それに対して、東大開学時の(法・理・文)「三学部」は、洋書調所
、(洋書調所が改称した)開成所、東京開成所、があった一ッ橋の護持院ヶ原に開学したので「一橋」と呼ばれました。[10]で三宅秀が福澤諭吉に叱られた「一つ橋の大学」です。1885年(明治18年)に「三学部」が一橋から本郷キャンパスに移転した後は、「一橋」の名を「東京高等商業学校(現・一橋大学)」に譲ったので、医学部以外の学部の通称は無くなってしまいました。仕方がないので(?)「赤門」と呼ぶ方もいらっしゃいますが、赤門は本郷に医学部しかない頃からありますし、東大開学時には医学部(だけのしかなかった)の通用門でした。赤門は医学部にに行く時にも通れますので、(東大全学であればともかく)「医学部以外の学部」を指すのに相応しいとは言えません。(東大関係者でなければ、どうでも良いことかも知れませんが、)困ったものです。
 東大医学部の公式サイトにも、赤門との関りが書いてあります。
「東京大学の赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷の現在地に移り新しい大学と病院の運営が始まり、明治17年(1884)他の学部が本郷に移るまで医学部の門として使われていました。赤門は、文政10年(1884)江戸時代の有力大名の加賀藩主前田家が、前田斉泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍徳川家斉の娘溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門です。当時、大名の子息が将軍の姫君と結婚するとき、花嫁のために赤い漆を塗った門を建てる習わしとなっていました。また、この門は武家屋敷の門の中でその希な様式と美しい表現が認められ、現在国の重要文化財に指定されています。」
 前田斉泰(1811~1884)は、前田利長(利家の嫡男)を初代とする加賀藩の12代藩主で、溶姫の輿入れのために江戸屋敷に赤門を建てて27年の後、地元・金沢に洋学所・壮猶館を創設し、その更に13年後、その壮猶館に三宅秀を雇い入れた人です。後年三宅秀が赤門の(? 本当は鉄門の)東大医学部の最初の学部長になったのも不思議な御縁ですね。
 話は変わって、東大工学部鉱山学(現・システム創生学)教授・山口吉郎(1892~1988)は、俳号を青邨(せいそん)と称する「ホトトギス」の同人です。工学部は赤門より大分北寄りなので、普段は正門を使っていただろう青邨は、赤門の句を幾つか詠んでいます。

    赤門は古し 紫陽花も 古き藍  (山口青邨)

 

          
          我が国の大学発祥地                        東大赤門        

 

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■自民党女性部会パリに遊ぶ

2023-08-02 06:42:56 | 徒然

蓮舫議員いわく「何もエッフェル塔の前での記念写真を投稿しないでもいいのにね」

        何も国会内でファッション誌の撮影をしなくてもよかったのにね

 

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