関ケ原の戦い直後、家康から忠興に宛てられた書状である。これによると丹後国は勿論の事、丹波一国を与えるというものである。
細川家は忠興の戦場での活躍は申すに及ばず、ガラシャの死や、父幽齋が500の手勢で田邊城に籠城し15,000余の軍勢を引き寄せて少なからず関ケ原の勝敗に影響を与えた。
忠興は、そのた田邊城を攻めた主将・小野木公郷がどうしても許せずこれを責めたが、これ以上兵を死なせてはならぬとの家康の仲裁を受け入れた。その結果、以下の如く家康の約束は反古となった。
このことが実行されなかったのは、関ケ原戦の軍監であった井伊直政が反対したことによるとされる。
直政は小野木公郷と親しく、彼の助命(以下の事件)が叶わなかったからだとされる。
京都に近い処を引き続き領地としたいとの思いは強いものがあったと思われるが、思わぬところに伏兵がいた。
八月十二日付家康書状(熊本県文化財調査報告書第ニ九号)
今度上方鉾楯付而無ニ被迎合候儀祝着存候、然者丹後之儀者不及申候、
但馬一國無異儀進置候、猶金森法印津田小平太可被申候間不能具候
恐惶謹言
八月十二日 家康(花押)
丹後宰相殿