元和八年(1622)閏八月七日(雨天)の日帳につぎのようにある。
知行高弐百石
一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事
じつはこの人物は、我が家の先祖附によると初代・磯部庄左衛門の兄であり、兄弟揃って召し出されたとある。
同時期数名の御小〃性衆がお目見えした事が奉行所が知らなかったのであろうか?
後の記録では、長五郎は「御毒見役」を仰せつかっている。毒見の為に殿様の食事を事前に食したのかと思っていたが、細川家の毒見は御料理番が直接行ったらしく、どうやら立ち合いをしていたようだ。
そして三斎公が亡くなられた後、殉死した蓑田平七の介錯役を務めた。長五郎には男子が居らず、女子一人が有りある記録によると「忠利公の御寵愛を受けた」とあるが、父・長五郎も我が先祖の庄左衛門も八代に居り三斎公の間違いではないかと考えている。その証拠にその女子・熊は(のち龍源院)、八代に於いて塩屋観音の復旧に尽力したりしている。
またその後熊本に於いて女ながら宗嚴寺を創建しているが、このことはかって熊本史談会のN氏がもたらしてくれた情報である。宗嚴寺
それ故、長五郎の磯部家は後継ぎが居らず絶家したものと思われる。
当家の祖・庄左衛門は先祖附によると病身となり出自の地・周防国下松に帰国したい旨を奉願したが、三斎公から八代の地で養生するようにとの御意でこの地で死去している。
ある時、図書館で歌手財前和夫氏に関係する平川氏の史料を探しているうちに、誠に偶然だが全く関係ない平川氏の史料を発見、このお宅が庄左衛門の長男の家系であることが判った。何故平川氏を名乗られたかはよく判らない。
我が家は、二男で母方の苗字を継ぎ今日に至っている。
いろんな偶然が重なり、先祖附では限りある情報を得て大方の事情が判って来た。どうやらこれ以上の情報を得ることは不可能ではないかと実感している。400年前の貴重な記録である。