津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■禅定寺脇の都市計画道路工事始まる

2023-08-30 10:11:48 | 歴史

 我が家には菩提寺が二つある。その一つが横手の禅定寺だが、ここには曽祖父・又太郎一家と絶家した三男の一族のお墓がある。
曾祖母は上田久兵衛の嫡女・晩稲だが、その実家上田家のお墓が禅定寺の西北の角に存在する。
禅定寺の西側を都市計画道路が走っていて、工事が始まれば上田家のお墓も心配された。
禅定寺はいわゆる歴史墓がたくさん残る。
禅定寺を興したとされるのが加藤清正の家臣・並河志摩守だが、そのご子孫s女史が史談会の会員だった。
政治力のある方で強烈な反対運動の先頭に立たれ、これが効を奏して県知事が現場確認に訪れるなどして、その都市計画道路の路線変更されることになった。もう10年ほど前のことである。
上田家のお墓も難を逃れた。
難を逃れきれていないのではないかと心配されるのが藤村紫朗のお墓や、剣客・雲林院弥四郎などである。
その工事が始まったと聞く。

 藤村紫朗は山梨県縣令などを務めた人物だが、旧姓は黒瀬氏である。寺原家鴨丁で黒瀬市左衛門の二男として生まれた。兄は市郎助という。
いわゆる横井小楠の「市道忘却事件」の舞台となった、江戸留守居役・吉田平之助別宅で都築四郎や小楠が酒宴を開いている処を、この黒瀬市郎助等が襲った。
事件の詳細はここでは触れないが、黒瀬は逃亡し、吉田の嫡男・傳太は敵討ちの苦しい旅を重ねる。
黒瀬は四国松山で捕獲されて熊本藩領・豊後鶴崎に護送された。
その時の顛末を我が家の曽祖父・又太郎安正が「吉田傳太復仇一件聞取帳」「 吉田傳太復仇現聞録」として書き遺した。
覚悟した黒瀬市郎助は立ち向かう事もなく、吉田傳太のもとに首を討たれた。
吉田家の墓前に市郎助の首が供えられたが、市郎助の母親が訪れて「その首にはもう用がないでしょうから、持ち帰ります」といって持ち帰ったという。
その首は、弟・藤村紫朗のお墓の隣に在る黒瀬家の墓地に埋葬されたのであろう。

市郎助を訊問している又太郎と、その市郎助のお墓は100m程しか離れていない。
禅定寺西側の、都市計画道路の工事が始まっと言う話を聞いて、黒瀬家のお墓はどうなるのだろうかと心配をしている。

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■実学党坪井派の長岡是容死去に際しての、沼山津派・横井小楠の想い

2023-08-30 06:51:20 | 歴史

 実学党の巨頭、家老・米田監物(是容)と横井小楠の決別は安政2年(1855)の頃だとされる。
その原因は「大学の道は闘徳を明らかにするにあり、民を新にするにあり」の解釈上の相違であった。
攘夷論者であった監物と、開国論で対した小楠は修復し難い亀裂を生み「絶交」した。
この時期からそれぞれの住まいの地の名により、小楠は沼山津派(新民派)を形成し、監物は下屋敷がある地名から坪井派(明徳派)を形成した。

 それから過ぎる事6年後の安政六年八月十日に監物は死去した。
福井に居た小楠に対して「下津久也・荻角兵衛」が訃報を届けた。これに対する小楠の書簡が残されているが、遺族に対しては「絶交中」であることを理由に、弔問する仔細はないと述べている。

  (前略)然ば八月十日に候哉監物殿被致死去候段申参驚絶仕候 扨々人事不定吉凶變態總て以外に出
                              あいだちがい
  申候 於御両君別て御痛情之程奉察入候 小生事御案内之通り近年間違に相成候儀は唯々意見の相違に
  て其末は色々行き違に相成時としては何やらん不平之心も起り候へ共於全體舊相識之情態替申様も無
  之 平成之心は依然たる舊交したはしき思を起し候事は於彼方も同然たるべきかと被存候 況哉千里之
  客居にて此凶事承り 不覺舊情満懐いたし 是迄間違之事總て消亡唯々なつかしく思はれざる心地に相
  成落涙感嘆仕候 誰之歌にて候哉
    あるときはありのすさみににくかりきなくてそ人は戀しかりける
                       長岡家
  心情御推察可被下候 本より絶交之事に候へばニノ丸に弔詞申進候子細無之 御両君迄心緒拝呈候 過ぎ
  去りし人は呼べども不可返(以下略)
     十月十五日          平四郎 

心情あふれる書簡にほっとさせられる。                      

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