著者・徳富健次郎(蘆花)は順子の夫・竹崎律次郎を紹介するに当たり、大間違いをしでかしている。
母方の伯父の出自を間違うとは・・・
竹崎律次郎は伊倉(玉名市)坂上の素封家・木下家の当主・初太郎の弟である。望まれて竹崎家の養子となった。
竹崎家も伊倉・阪下の素封家で、遠祖は蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長の兄の子孫だと蘆花は述べている。
さてその蘆花が仕出かした間違いとは・・・本文を引いてみよう。
「伊倉の木下家は槌音久しく絶えて唯豊かな地主の生活をして居ましたが、それでも伊倉では木下家
を今以て鍛冶屋と云ひ、木下家の所在を鍛冶屋町と云ふて居ります。(中略)
長男は眞太郎、次男は律次郎です。(中略)兄の眞太郎は廿二歳の年藩學時習館の試驗に抜群の成
績で士分に取り立てられ、また藩侯の伴讀、世子の侍讀、府學訓導など勤め(中略)即ち木下犀潭
先生(韡村)で・・・」
「阪下の竹崎家から律次郎に養子の口がかかつて來た時、木下家はもう兄眞太郎の時代になつて居ま
した。兄は名家竹崎の名跡を弟に嗣がす事を喜びました。
木下韡村は菊池木下家と呼ばれるが、律次郎の実家は伊倉木下家であり律次郎の兄は初太郎である。
鍛冶屋と呼ばれたというのは、木下家が肥後同田貫の刀鍛冶にかかわっていたことに由来する。
インターネットサイトに「木下家系図」が紹介されている。これをご覧頂くと一目瞭然である。
初太郎の娘が韡村の弟の徳太郎(助之)を養子に迎え、両家の縁がつながった。後に玉名郡長や衆議院議員をつとめた。娘・常が韡村の二男・木下広次(京都帝大初代総長)に嫁ぎ、その二男・道雄に孫娘・静が嫁いでいる。その異腹の姉弟(?)が作家・木下順二である。
このように菊池・伊倉両木下家は婚姻関係で強い絆を結んでいる。