津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■他藩士の娘を娶る

2023-08-01 06:06:21 | 徒然

 毎日の余りの暑さに、ただただ家に引きこもり引越し後の跡始末に明け暮れて居る。
本は姿が見えるからいいが、資料類は封筒に入れたりしているものが多く、私の悪い癖で内容物を表記していなかったから一々確認しては明記する作業をしている。そんな中、懐かしい史料が出て来た。

 7万石・三河吉田藩(後の豊橋藩)の藩士・大島家の記録をまとめたものである。
三河吉田藩は10回にわたり藩主が入れ替わったが、松平信綱を初代とする大河内松平家の奏者番・大坂城代・老中を勤めた4代目信祝が入部、一代を本庄松平家を挟み、後に5代目・信復が入部してこの地に定着明治まで七代続いた。7代・信明、8代信順と二人の老中を輩出している名家である。
その松平家臣の大島左源太(豊陳)家の「たみ」という娘が、細川藩士・高田武七郎に嫁ぐに当たっての記録も残っていた。
沢山の資料が残されており、現在では公的機関に奇託されて研究が進んでいるらしいが、当時は東京で「大島家文書研究会」という組織が、研究を進め成果として「大島家文書の世界ー若殿道中記・たみ縁組」という立派な冊子を発行された。
そのおり、細川家藩士・高田武七郎に関しお問い合わせをいただきお手伝いをしたことがあったのでご恵贈給わった。
200石取りの御宅で、有禄士族基本帳などの記録が残されているが何故か先祖附が残されていない。「高田武右衛門家」と関係あるのではないかと思うが、確かな史料が見当たらず、今でも少々残念に思っている。

 熊本細川藩士が何故三河吉田藩士の娘を嫁にすることになったのか、その経緯を知りたいがこれに関してはよく判らない。
史料が欠落しているのは、高田家がある時期から江戸定詰であったのではなかろうか。
縁組の話も当然江戸で行われているのだろう。それにしても両家を結ぶ赤い糸がどこからもたらされたのか、これがとんと判らない。維新の改革にあたり武七郎は熊本に帰国している。久末村居住とあり、たみは江戸から豊橋を通り過ぎて遠国・熊本へきてさぞかし寂しい思いをした事であろう。
廃藩置県と共に江戸へ帰ったのだろうか。

 同じ袋に、久住祐一郎著「三河吉田藩・お国入り道中記」という文庫本が入っていた。
上記資料は豊橋市美術博物館に寄託されたらしいが、そこの学芸員の久住氏によって「大島家文書の世界ー若殿道中記・たみ縁組」の内の「若殿道中記」釈文に詳しい解説説明を加えられ発刊されたのがこの冊子である。
2019年5月書店で偶然見つけ即購入した。
その後「たみさん」の結婚についての話には進展はないのだろうかと気にしている。

                   

コメント
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