津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利の「上意」文書の謎解き

2023-08-23 06:35:44 | 史料

 過日■天草島原の乱後に於ける忠利の配慮を書いたが、この内容の人物は誰なのかが気に成って仕方がない。
そこで謎解きにチャレンジしてみた。
     

              上意
                細川越中守
             手疵弥療治相届
             快方ニ茂候哉 無
             御心元被 思召候
             様子聢与承候様との
             御事ニ候 万一及大切
             候とも跡式之儀ハ去事
             仮養子ニ被願候弟
             有之儀ニ候之間此度
             願ニ不及候条致安静
             御養生致候様ニ与被
             仰出之

 忠利は天草島原の乱で手疵を負った人物に「上意」として見舞いを遣わしている。
文面から手疵を負った人物は身内か大身の者であろうと推察できる。
気に成って仕方がないから、戸田敏夫氏著の「天草・島原の乱 細川家史料による」のページをめくった。
文中に該当すると思われる人物が二人見つかった。一人は三渕右馬助重政である。三渕家は細川幽齋の実家で、末弟・好重の嫡男が重政(2代)である。
忠利からすると大叔父にあたる。
「(前略)不意に一揆が出て槍で突いた。左のほお先から耳際まで突かれた右馬助(重政)は、騒がずに見返して、ひと槍に一揆を倒し、家士下田市左衛門に首を取らせた。右馬助は重傷で痛み、耐えられなくなって陣小屋へ帰って行った。」と記されている。

 今一人は、三渕内匠昭知である。右馬助と同じ三渕姓だが、この人物は幽齋の兄・三渕藤英の四男で後の朽木家の2代目となる。忠利からするとこれも大叔父になる。
「三淵内匠昭知(3,000石)は、本丸の下まで着いた。犬走に着こうとしたとき、一揆の鉄炮で左肩を撃たれ、重傷で戦えなくなり、家老頼母(有吉)・清田石見らにことわって本陣へ帰った。」

 どちらかというと前者の右馬助の方がより重症のように思えるが、「上意」の文面に在る「仮養子ニ被願候弟有之」からすると、どうやら後者であるようだ。
命は長らえたが、寛永19年には隠居している。
朽木家は初代・昭貞、2代・昭知で三淵藤英の三男と四男であり、弟が兄の跡を継いだがここに「仮養子の弟」とあるのは、三淵五兄弟の末弟・昭長だと思われ4代目(3代目は2代目嫡男・昭重)を継いでいる。
ちなみに4代目・昭長が朽木家嫡流となり、3代目の昭重の子・澄定は、上記右馬助の三淵家の5代目の養子となっている。(6代)

 これにて一件落着、忠利の細やかな心遣いが見て取れるが、同様に三淵右馬助重政に対しても見舞いが遣わされたことは間違いなかろう。

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