津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■カレンダー

2023-10-04 13:53:55 | 徒然

 10月に入ると涼しさと共に、なんだか慌ただしさも感じる。
奥方は「お節」の注文先を心配しだしたし、今日は「お土産」といってカレンダーを数種購入してきた。
私が使うカレンダーは、今年と同じく無地で旧暦などが書き込まれたシンプルな、月一枚のカレンダーである。
これは前もって奥方にリクエストして置いた100均ものだが、これが一番使いやすい。
最近は書き込む事柄も少なくなったが? 又探さなくと良いように、まずは、今年のカレンダーの後ろに重ねておいた。

 今年は5ヶ所の窓ふきという大仕事がある。角部屋という事で数が増えたしまった。
奥方は背が低いから「お願いします」の一言で、自分には関係ないという顔をしている。
まあ、これは来月でも良かろうが、11月には史談会での私の担当が回ってくるから、そろそろ準備に取り掛からなければならない。
爺様の年末はこんなものだが、突然の対応は出来ないからそれこそカレンダーに書き込まなければならない。
今日のカレンダーを覗いたら、20時からBSプレミアムで、「宮本武蔵」を見なければ成らなかった。
カレンダーを見忘れると見逃すところだった。その時間になって忘れてるという事はないと思うが・・・

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■前・八代未来の森ミュージアム 副館長・福原 透氏著書 御紹介

2023-10-04 10:49:01 | 書籍・読書

              細川三斎 「天下一みぢかき人」の実像 福原 透 著

                

                     四六判・上製 ・386頁(カラー口絵8頁) 4,730円

信長、秀吉と戦国時代の覇者に仕え、豊臣恩顧でありながら関ヶ原合戦では家康を勝利に導き、八十三歳で大往生するまで、大大名として徳川三代に仕えた細川忠興(三斎)。正室ガラシャは明智光秀の娘で、関ヶ原合戦前に死を選んだ気丈な戦国女性としても知られる。戦国一の短気者として、波乱万丈の世を冷酷無慈悲な行動で一家を護り、晩年もおのれのやりたいことを貫いた。

その一方、父細川幽斎の教養を受け継ぎ、蹴鞠や茶を学び、若い頃より千利休に師事、後世「利休七哲」のひとりにも数えられた。茶風は古田織部のような創意や華麗さは求めず、利休流の古い形を守り伝えた。その人生と茶の湯との関わりを、地元・熊本出身の筆者が詳細に分析、新たな茶人・三斎像を提示する一冊。付録に幽斎・三斎の「茶会一覧」など資料も充実。

[目次]
〈第一章 細川の家 ― 三斎(忠興)の一族〉
     父幽斎(藤孝)の家族/三斎(忠興)の家族
〈第二章 三斎(忠興)の生涯〉
     山城勝龍寺時代/丹後宮津時代/前小倉時代(藩主時代)/豊前中津時代(隠居時代)/肥後八代時代(最晩年の日々)/三斎の人間像
〈第三章 三斎と茶〉
     父幽斎と茶/三斎と茶の湯との出会い/三斎と茶会1/三斎と茶会2/三斎をめぐる茶書/「三斎」号の意味するもの/三斎余光
〈付録〉略年譜/関係地図/茶会一覧/参考文献/人名索引ほか

著者略歴
福原 透(ふくはら・とおる) ― 1959 年、熊本県生まれ。立命館大学大学院歴史学専攻博士課程前期修了。八代市教育文化センター建設準備室、八代市立博物館未来の森ミュージアムの学芸員などを経て、平成25 年、同館副館長。令和元年、退職。専門は肥後の近世文化史(陶磁史・茶道史・絵画史)。東洋陶磁学会、九州芸術学会等共著に『茶道学大系』10 茶の古典(淡交社 1991)、『細川幽斎・忠興のすべて』(新人物往来社 2000)、『新熊本市史』通史編近世Ⅱ(熊本市 2003)などがある。


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■忠利夫人豊前を離国す

2023-10-04 05:58:57 | 歴史

 忠利が徳川家康の曽孫(岡崎三郎信康女の娘)で秀忠養女・千代姫と結婚に至った経緯がよく判らない。
忠利は15歳(慶長五年正月廿五日)の時から證人として江戸に留め置かれ、実質の解放となったのは父忠興が殊の外「御煩ニ付」、忠利の家督の決定したことによる。(慶長九年八月二十六日付、家康公御証書)
この時忠利(当時内記)は、見舞いの為御暇を給わり帰国したものと思われる。実質の證人を解かれたことになり、約4年半ほどの證人生活を終えたことになる。
忠利の江戸證人時代における家康・秀忠との親交は、その後の彼の人生に大いに寄与している。
忠利の結婚についても、徳川家の意を躰した幕府の意向によるものであろうことは十分にうかがえる。

 慶長十四年(1609)四月に豊前で結婚した千代姫との間に、元和五年には嫡子・六丸(光尚)が誕生しており、以来過ごした中津城から共に小倉城に移徙したが、元和九年(1623)に至り正室の江戸居住が仰せ出され十月四日千代姫は14年間過ごした豊前国を離れることになる。
忠利はその後熊本に移封され54万石の太守となるが、千代姫は熊本城を見ることはなかった。
豊前国には、千代姫の実方・小笠原家が移封されて入国した。
細川家・小笠原家は共に九州の抑えとして、明治の御一新迄すごすことになる。

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