今朝は良い天気になりました。レースのカーテンに太陽が当たり、壁に切り絵のような景色を作りましたので、携帯のシャッターを切りました。
風鈴はカーテンレールにつるしていますから、サッシュを開けない限り用をたしません。そろそろ取り込みましょうか。
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慶長11年の7月17日、飯河豊前と長岡肥後が誅伐された。原因は判らないが藩は飯河父子に罪過ありとして閉門の処置を取り、逸見次左衛門を派遣して両御所に報告させている。
そして逸見が下着したその日のうちに、誅伐が決行されるという異常さが見て取れる。
父豊前は討手の河喜多石見を迎えて家族共に働き見事討ち死にした。討手河喜多石見は豊前の家来に討たれて死亡した。
一方肥後は米田是季の妹(姉?)である室と不和の状態が三年続いていたというが、室が夫・肥後の最期にあたり生害を共にせんと肥後の元にかえり、討手の益田蔵人を屋敷内に迎え入れ、益田の周旋の申し入れを拒否して自らは妻を殺害して切腹、益田が首を落として忠興のもとに供した。
「細川藩主要家臣系図」によると、肥後か妻は黒田蔵人に再嫁したとあるが、上記綿考輯録の伝える所によると明らかな間違いである。系図には黒田蔵人再嫁と表示し直した。
さて米田是季だが、この当時は興季と名乗っていたようだ。当然忠興からの拝領の字だと思われ、是季と名乗り直している。綿考輯録には誠に小さな次のような記事が残る。
「今年(慶長11年)、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、于時22歳 浪人之内、大阪ニ籠城の事等忠利君之譜、元和九年帰参之所ニ詳ニ出」とある。
是季の帰参に当たっては、忠利の綿密な計画のもとに行われたのではないかと思われる節がある。次回取り上げる。