津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家歴代当主の幼名

2023-10-07 16:53:01 | 徒然

 細川家史料によると、細川光尚は六番目の子だから「六丸」だとするが、六丸の前に生まれた忠利の五人の子女については系図に挙げられていない。何とも不思議で合点がいかない。

 さて、細川家歴代当主の幼名について、考え出したら1/3程しか思い出せず、これは細川ウォッチャーとしては失格だなと思い至った。
改めて書き出してみることにした。

         1、藤孝(幽齋)  萬吉
   2、忠興(三齋)  熊千代
   3、忠利      光千代
   4、光尚      六丸
   5、綱利      六丸
   6、宜紀      竹之助 *新田藩による命名(新田藩では2代藩主の弟・利重)
   7、宗孝      主税 後・六丸
   8、重賢      六之助
   9、治年      胤次(たねじ)
   10、齊茲      與松 *宇土細川家による命名(宇土支藩では7代藩主・立禮)
   11、齊樹      楢之助(よりのすけ) 後・六之助
   12、齊護      與松 *宇土細川家による命名=(宇土支藩では9代藩主・立政)
   13、韶邦      訓三郎(くにさぶろう) 後・六之助
   14、護久      義之助 後・澄之助
   15、護成      建千代
   16、護立        ーー
   17、護貞        ーー
   18、護熙        ーー
   19、護光        ーー

 宇土支藩・藩主(7・9代)から宗家の10・12代を継いだ二人の幼名「與松」は、7代・立禮(本家相続して齊茲)誕生に際して、「コノ名ハ兼テ本家ヨリ御自筆ニテ進ゼラレシモノ也」という由緒あるものとして命名され、9代の父(宗家11代の兄)8代立之の幼名も同じである。
與松の「與」いう文字は、忠興の「與一郎」から来ていると思われるが、この字の訓読みに「とみに」とあるが、與松の読みは「とみまつ」なのか?
まさかそのまま「よまつ」で良いのかこれが判らない。他に読み方があるのか??
ご存知よりの方の御教示をお願いしたい。

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■入江太門太家・傳十郎家、侍帳決定稿

2023-10-07 06:56:41 | 人物

両家は摂州高槻城主であった左近将監元秀の嫡男・景秀(太門太家)と、二男景光(傳十郎家)を祖もしくは初代とする同族である。景秀も景光も淡路守を名乗っており、これは景秀が死去した後景光が名乗ったものと思われるが、綿考輯録でも随分混乱している。ほかの史料を含め検討した結果、このようなことで決定稿としたい。さらに太門太家初代・三之允の系図に「室‐細川越中守忠利女」という驚くべき書き込みが有り、現在鋭意確認に勤めている。判明次第報告申し上げる。
当方サイトの「新・肥後細川藩侍帳」のUPはしばらく時間を頂戴したい。


■ 入江太門太 (東南4-21)     百五十石
     左近将監元秀 摂州高槻城主
    嫡男 

        淡路守(景秀 入道普門) 【田辺城籠城】 
          
忠利君よりの御書に、於田辺長々籠城苦労有之由、尤心中察申候、手柄なる儀共満足申候と
          被遊候御自筆なり(下記)             (綿考輯録・巻五)
          豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子
          に勝る働有しと也、父は左近将監元秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族
          郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より
          御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たり
          しといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪し
          て普門と云、慶長十九年六月病死

    1、三之允      (1)百石 側小姓御扈従役与 「一書二歩小姓頭実也」 (於豊前小倉御侍帳)
             (2)歩御小姓頭衆 弐百石 (肥後御入国宿割帳)
             (3)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・三之丞
             (4)御留守居衆・田中左兵衛与 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・三之丞
    2、嘉左衛門
    3、権之允
    4、十之允・正裕(初・本教)
             (1)奥田藤次郎組 六人扶持 元禄二年十二月十三日御目見 (御侍帳・元禄五年比カ)
             (2)百五十石 御番方十二番御留守居組 屋敷・御昇町(肥陽諸士鑑)
    6、十兵衛(三之允) 
             (1)八番与 百五拾石 (御国中御侍以呂波寄) 
             (2)新御屋形御小姓役 百五十石
    7、十兵衛
    8、鉄之助
    9、小十郎(三之允) 御番方十番大河原次郎九郎組 百石
    10、十之允(十左衛門・久門太・太門太)      百五十石

       不明:八郎兵衛 寛永十五年十一月~   上益城郡郡奉行


■ 入江傳十郎 【丹後以来】 (東南4-20)  三百石
     左近将監元秀 摂州高槻城主
    二男
    
1、平内(右近、後淡路  景光)  
弐百石 三斎様御附中津二相詰候衆 (於豊前小倉御侍帳)
                                   入江平内入道真斎
            淡路(景秀・入道普門)弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、
            芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ
            差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
                 立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
            忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明
                                   (綿考輯録・巻14 P260)
 

        入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻28 p6 子孫・十郎大夫所持)
            折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々
            苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之外
            ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略
            ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
                  五月三日           内記忠辰(忠利)御判
               入江淡路殿 まいる
       
    2、徳左衛門(初・平内・左近・勘三郎)
          淡路嫡子徳左衛門・初勘三郎親掛りにて、御知行弐百石、家督之上三百石、大阪御陳夏
          冬共に御供、有馬御陳ニも御供働あり
 
                 (1)御詰衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
                 (2)御馬廻衆四番筑紫大膳組 三百石
    3、徳左衛門       慶安頃~  下益城郡郡奉行
               明暦元年~ 上益城郡郡奉行

    4、半右衛門
    5、弥三左衛門・秀就(初・平内・左近 後百助)
                 一番松野平左衛門組 拾二人扶持 半右衛門嫡子入江万次郎百介二成
                                     (御侍帳・元禄五年比カ)
               享保頃~  上益城郡郡奉行
    6、十郎大夫・助守(平内)  三百石 御番方三番組御郡奉行 屋敷京町(肥陽諸士鑑)
    7、平内      御備頭組・御留守居大頭組 軍学師範 三百石
          入江淡路 名は景住、平内と称す。物頭列となる又甲州流軍学師範たり。
               寛政六年十月十六日歿す。年五十九。
          
謙信流軍学師範
               愛甲十右衛門門人にて有之候処、横田勘左衛門師役被仰付候間、直門人
               に罷成皆伝仕候処、安永二年師役被仰付、右勘左衛門両人にて相勤申候
                                      (諸師役流儀系図)
          屋敷:御花畑前 (新熊本市史・地図編30 p64)

    8、十郎大夫   新御屋敷・御小姓役 五人扶持 平内嫡子御雇
               寛政五年二月~同十年十月 奉行副役・後江戸留守居二転
               寛政十二年七月~享和二年九月 奉行(被差除)

               御知行被召上候 享和二年九月十四日
                        高三百石四合壱勺六才 十郎大夫・純次
          入江素川 名は景福、十郎大夫と称す。頗る才気あり、藩に仕へ奉行副役を経て
                 奉行となる。天保六年二月九日歿す。年七十九。

    9、純次(徳左衛門・直右衛門) 御鉄炮三拾挺副頭・荒木助右衛門副頭 有吉組 三百石
    10、駿太(十郎大夫・弾允)   嶋田四郎右衛門組・御番方三番組 三百石
    11、弾右衛門(傳十郎)          三百石

        参考:肥陽諸士鑑においては
             淡路---徳左衛門---半左衛門---百助---十郎大夫としている
        
        参考:寛永十九年閏九月廿五日(熊本縣史料・近世編第二 p365)
            入江徳左衛門子傳十郎歳拾弐ニ成由候間如定之弐拾人扶持方可遣也
                                        奉行中

 

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