細川家史料によると、細川光尚は六番目の子だから「六丸」だとするが、六丸の前に生まれた忠利の五人の子女については系図に挙げられていない。何とも不思議で合点がいかない。
さて、細川家歴代当主の幼名について、考え出したら1/3程しか思い出せず、これは細川ウォッチャーとしては失格だなと思い至った。
改めて書き出してみることにした。
1、藤孝(幽齋) 萬吉
2、忠興(三齋) 熊千代
3、忠利 光千代
4、光尚 六丸
5、綱利 六丸
6、宜紀 竹之助 *新田藩による命名(新田藩では2代藩主の弟・利重)
7、宗孝 主税 後・六丸
8、重賢 六之助
9、治年 胤次(たねじ)
10、齊茲 與松 *宇土細川家による命名(宇土支藩では7代藩主・立禮)
11、齊樹 楢之助(よりのすけ) 後・六之助
12、齊護 與松 *宇土細川家による命名=(宇土支藩では9代藩主・立政)
13、韶邦 訓三郎(くにさぶろう) 後・六之助
14、護久 義之助 後・澄之助
15、護成 建千代
16、護立 ーー
17、護貞 ーー
18、護熙 ーー
19、護光 ーー
宇土支藩・藩主(7・9代)から宗家の10・12代を継いだ二人の幼名「與松」は、7代・立禮(本家相続して齊茲)誕生に際して、「コノ名ハ兼テ本家ヨリ御自筆ニテ進ゼラレシモノ也」という由緒あるものとして命名され、9代の父(宗家11代の兄)8代立之の幼名も同じである。
與松の「與」いう文字は、忠興の「與一郎」から来ていると思われるが、この字の訓読みに「とみに」とあるが、與松の読みは「とみまつ」なのか?
まさかそのまま「よまつ」で良いのかこれが判らない。他に読み方があるのか??
ご存知よりの方の御教示をお願いしたい。