津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利の先見性

2023-10-22 15:24:13 | 歴史

 □□本町という呼び方は、周辺の同じ町の名を冠した□□丁目という町域の元々の町であるから本町と名付けられる。我が家にほど近いところにも健軍本町・神水本町・保田窪本町などがあり、その地域の核をなしている。
保田窪地域の保田窪本町は、今はメイン道路から外れているため、その町のたたずまいは一般に人の目に触れることはない。窪地を有する丘の連なりがあって、その頂部分が平地に開かれて後の健軍飛行場となった。
ここは寛永11年(1634)細川忠利が、阿部弥一右衛門(小説阿部一族の主人公)に命じ、新地鉄炮組を託麻ヶ原の開発のために置いたのが始まりで、今でも古い門構えのお宅が軒を連ね昔の面影が残っている。
同時に忠利は、現在台湾のTSMCの進出で沸きに沸いている菊陽町に、こちらも同様に、御掃除方の上林甚助に命じ新地鉄炮組を入れて開発にあたらせた。
鉄砲小路と名付けられた一直線の道路は3.6㌔に及び、当時の屋敷割による生け垣などが整備された綺麗な佇まいを残している。
裏手には加藤忠廣が手掛けたものの改易によって中断された堀川水路(瀬田~飛田間)が、忠利によって継続整備され水利も整い開発は順調に進んだ。
今でも誇り高いその子孫の方々が住み、きれいな町並みを残し、今でも国民の祭日には家々に日本国旗が飾られて壮観さを見せる。

又、寛永13年には花立や黒石などにも新地鉄炮衆により開発が勧められ、八カ所地筒という言葉がある様に、その他兎谷、麻生田、楡木、平山などにも整備された。

そして、天草島原の乱が勃発するにあたっては、これらの地筒鉄炮衆も出陣を余儀なくされたが、まさに、この戦いを予見するような忠利の新地鉄炮衆創立の先見性には大いに驚かされる。

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■闇の中に立ち尽くす

2023-10-22 06:47:58 | 徒然

 今朝4時過ぎ、左足に強烈なこむら返りが来た。ベッドから出ようとするが毛布が足に絡まって少々時間が経過したから、足は伸びきってしまって立つこともできない。
ベッドに座りつま先を床面につけて前かがみとなって体重をかける。
元に戻るまで数秒の事だが余りの痛さに時間が長く感じられる。2時間半以上経過したが、まだ筋肉のこりがとれない。
しばらくベッドに座り込んでいたら、右足もなんだかおかしい。親指や小指が反り返って床につかない。
このままだと右足もこむら返りが来るかもしれないと思い、今度は闇の中に立ち上がって数分間つま先立ちを繰り返す。
室内温度23.5度、あまり寒さは感じなかったが、ようやく親指・小指とも床について一安心、冷えた身体を温めようとベッドに飛び込んだ。
考えて見ると、ある靴を履いて外出した時に起こるような気がしてきた。
朔日は史談会で外出したが、歩くことは往復2キロにも満たないと思うが、この有様である。
ラバーソールの軽い靴だが、どうやら足底が地面に対して機能していないようだ。
今日は一日素足で過ごして足底の機能回復に勤めよう。そしてスリッパに変えてわら草履をはいてみようかとさえ真剣に思っている。
強烈な痛さはもう願い下げだし、闇の中に立ちつくす滑稽さはもう味わいたくない。

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