津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■衣被

2023-10-11 15:03:26 | 徒然

 こういう言葉を聞くと、日本人って何と優雅な人類だろうと思ってしまう。
衣被(きぬかつぎ)とは、平安時代以降女性が外出するときに被る衣のことだが、「皮のまま茹でたり蒸した里芋の子芋」のこともこういう。
真っ白な芋がつるりと剥ける衣を被っていることから、そう呼ぶらしい。
私が幼いころ、祖母からいろんな話をきいたが、そんなとき「ゆでた子芋」が登場して、塩を振ったり、醬油を掛けたりして食べたことを思い出す。
結婚してから、私が「ゆでた子芋」が好きだという事を知って、奥方が思い出したように作ってくれる。
奥方はあの食感を「にとんにとん」と不思議な表現をする。延岡の言葉なんだろうか?

 もうニ三十年前、先輩の友人と飲みに出かけ場末の赤ちょうちんに入った。
そこでこの子芋が小さな鉢に鉢盛りで出てきて、二人でつまんでいると、その友人がこの子芋を「衣被」というのだと教えてくれた。博学の人だった。
お湯割りの焼酎を数杯飲んだと思うが、私は先輩がトイレにいった時に、割りばしの袋に「焼酎や 衣被二つ三つ良夜かな」と認めた。
私の手元を覗き込んだ七十はとうに過ぎたと思える女将が、「あら頂戴」といって取り上げられた。

 後日談が有り、その先輩が数か月後またその店に寄ったら、柱に糊付けされて残っていたという。
「この下手な句を作ったのは誰だ」と客の間で言う人があると聞いて、先輩は「KS」と書き込んできたと報告を受けた。余計なことをする。
私は二度とこの店を訪れていない。店が閉められてしまった。
そんな店の暗闇の中に、下手な俳句がぽつんと残されているかと思うと、ちょっとゾーッとする。
その後周りの赤ちょうちんの店と共に取り壊されたらしく、新たな飲食街になっているらしい。
そういう事もあって忘れられない駄句の一つである。よくよく考えると「季重なり」という決定的チョンボを犯している。

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■米田是季の出奔から帰参まで(3-了)

2023-10-11 06:58:16 | 人物

 大坂の陣において西軍に参加した人たちは、新たな仕官が制限されていたが、これが解除されたのが元和九年の事である。
細川家には閏八月廿八日、板倉周防守から忠利宛に「大阪浪人御かまひ無之との儀ニ付」知らせがもたらされた。
その結果を受けて九月末には細川家に於いても、三齊の意を受けてひっ迫する財政状況の中から三名を召し出している。
米田是季の帰国もそういう状況もあろうと、準備が進められていたようだ。
具体的に名を上げてその帰還を幕閣の要人等とも事前の打ち合わせがなされ、当人との接触もなされていたと考えられる。

 「元和八年之春志水伯耆を以御内意をも被仰下候処、今年に至大阪籠城之浪人抱候儀不苦」との状況に至り京都での目見が画策されている。

 夜前は久々二而対面申候、其方儀則周防殿江津田與庵を以相尋候処、不苦候間抱可申候由候条、
 可心易候、為其如此候、謹言
   八月廿八日          忠利御判
    長岡監物殿        越中


 一筆申候、女共差上候此戻船ニ其方可被下候、不及申候得共、此中之体ニ而被下造作無之様に
 と存候、軈而下待入候、謹言
                 越
   九月十四日          忠利御判
    長岡監物殿

ここにある「女共差上候・・」とは、正室千代姫が幕府より江戸藩邸詰を申し渡されて豊前を船路にて旅立った、その戻り船で帰えるようにと指示している。九月十四日に小倉を出船している。
忠利は父三斎の手前を憚り、「三齊様江御礼申上候而可然候ハん間・・・」と斡旋の労を取っているようだが、三斎は「御ち(乳母)」あての書状に「よそへつかハし候ハんとも、かゝへ候ハんともまゝにて候よし申つかハし候」と認めているように、忠利の判断に任せるという寛容さを見せている。
しかし、対面するのは三齊の死の直前、孫光尚の時代になり光尚の配慮により実現した。

十月廿三日付の「覚」では、「人数五増倍扶持方可遣候」という書き出しに始まり、馬の飼料・薪・塩・炭などの手配が奉行へ達せられている。
又「監物人数之覚」に於いては、家族が「本人・母・女房・せかれ」四人と、侍・小姓十人、台所人・女房達・はした・仲間小者など総計42人という大所帯である。
つまり当座の事として、「42人×5=210人扶持」が手渡されたことになる。

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