元和六年の年が変わろうとする頃、忠興は病には勝てず、ついに忠利に家督を譲った。
すっかり痩せてしまい、愛娘・万姫(烏丸光賢簾中)に宛てた手紙では、父幽齋によく似てきて吃驚したと述懐している。
忠利と居を入れ替わるために三斎は志水宗加の屋敷に入り、忠利夫妻が小倉城に入ると三齊が中津城に移った。
仲津に入ってみると、それまでのいろんな家臣の出入りがまったくなくなり、三斎は隠居とはこういう事かと唖然とする。
今迄、しょっちゅう顔を合わせていた家臣も顔さえ出さない。しびれを切らして三斎は忠利に対しその旨を伝える。
触れが出されたと見え、家臣の中津詣でが始まった。これがしばらく続くと、今度はこれに対応することが億劫になって来た。
ついに値を上げた三斎は、元和七年十月十三日書状、自らの無分別だと後悔している。
「我々隠居不見廻者共之事、此以前無分別ニてむさと志たる儀を申、後悔ニ候」
小倉‐中津間は50㌔以上ある。参勤交代の一日の行程が約10里(40㌔)と言われるから、それこそ七つ立ちをして、休みなく歩いても中津に着くのは夜中だろう。
出かける方も大変だが、わざわざやって来た家臣に遭わないわけにはいかないから御隠居様も大変で、ついに音を上げてしまわれた。
隠居とはかにかくに淋しいものらしい。
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